隣恋Ⅲ~宿酔の代償~ 8話


※ 本章は女性同士の恋愛を描くものです ※


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 ~ 宿酔の代償 8 ~

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「うぉマジか! ありがとうございます!」

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 突然のまーの行動に固まっていた伊東君が、嬉しそうに頭をさげた。

「引き続き、よろしく」

 部長らしい笑みを残してまーが立ち去る。
 その後ろで、伊東君はガッツポーズを小さくしている。

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 この部署には、何年か前から暗黙のルールが存在している。

 まぁ、ルールという程でもないけれど、”森部長に4回ぽんぽんされたら昇給”というものだ。

 どうしてこれが暗黙なのかというと、会議ですでに昇給は決まったものの、実際に給料があがったのが発覚するのは、給与明細書を目にする翌月の給料日。
 しかも人によっては、給与明細書を確認しない人もいる。
 さらに、昇給される人は限られているのであまりおおっぴろげにその事を公表しない方が好ましい。

 人間、給料があがれば、仕事への意欲も増す。そして給与明細書を確認しない人にも昇給を知らせる事ができる。
 最後に、まーは一言も「君、昇給だよ」とは言っておらず、ただ頭をぽんぽんしただけだ。

 その三つの点から、まーが部長になってから始めたこの儀式。
 人によってぽんぽんされる部分は違うけれど、4回ぽんぽんされたら昇給。

 最初は噂程度の事だったけれど、回を重ねるごと信憑性を増し、今となっては、部署のトップを集めての会議の後にぽんぽんされると、社員は素直に喜ぶ程、暗黙のルールと化していた。

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「よかったね」

 去っていくまーの後ろ姿を一瞥してから、わたしもデスクへ着く。
 休憩時間はまだ終わっていないけれど、定時で帰るためにも早く仕事を片付けてしまいたい。

「いやぁ、前の企画が上手くいったからかもな。あの時は金本さんにも助けてもらったから。ありがとう」
「どういたしまして」

 ハロウィン辺りでわたしが頑張っていたように、彼も自分の企画を進めていた。
 たまたま煮詰まっていた彼にちょこっとアドバイスをしただけなんだけど、こうしてあの時の小さな事を記憶しているのが、彼の凄い所。
 基本的に彼は、忘れるということをしない。

 同期だから、彼の仕事振りは長年見てきたけれど、取引先の人の好みや趣味の話から、自社の企画に携わった人のフルネームまで、一度聞いたら記憶して忘れないと言っても過言ではない。

 その上マメな性格もあって、それをファイリングしているもんだから、誰の目で見ても分かりやすい資料作りが出来る。
 彼はその強みを自分で理解していて、それを武器にする術も心得ている。

 だからこそ、今回の昇級もあったのだ。

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「あー…と、その時のお礼って訳じゃないんだけど、今夜食事に行かないか?」
「え?」

 昼休憩中に来たメールのチェックからして、その後明日の会議の資料の最終チェックして、と午後の仕事の段取りを頭の中で組み立てていると、伊東君の突然のお誘い。
 さすがに、自分の空耳かと聞き返してしまった。

 だって、こんな唐突な誘い方は彼らしくない。
 同期だから食事には何度か行ったこともあるけれど、それは例えば同じチームで企画を進めてきて成功した記念とか、水面下で進めたい企画があるからその相談とか、何かしらの理由があって、彼から食事に誘ってくれる事が常だった。

 だけど今日の誘い文句は、「その時のお礼って訳じゃないんだけど」とはっきり否定した。
 彼らしい誘い方としては「あの時のアドバイスのお礼と、俺の昇給祝いってことで食事行かないか?」とおどけたように言う。これが伊東君というものだ。

 なのに彼は……どうして、あんな言い方をしたのだろうか。

 内心首を捻りながら、伊東君の表情を窺って、一瞬だけ、わたしは頬を引き攣らせた。

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