隣恋 第3話 翌朝、ゴミを出しにでると

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 翌朝、ゴミを出しにでると、エレベータでばったり。

 なぁんて、ドラマ的な展開もなく、フツーな日常をフツーに過ごしていた。

 大学行って、バイトして、家でたまにお月見ビールを呷る。

 特に変わったことと言えば、火曜日のギシアンがなくなった事くらいか。
 どうやら本格的に、ウシシな展開なのかもしれない。

 ……しかしながら、彼氏さんが仕事で転勤、出張というケースもあるので、本当のところは謎のまま。

「こんなに近いのに、なにも分からないのはなぁ……」

 お月見をしながら、独り言を呟く。

 ここら辺りで、もう1回話でもしたいから、ベランダに出てきてくれないかな。
 私はビール瓶片手に、隣のベランダとの仕切りの壁を横目で窺うけれど、ただ、安っぽい壁が私と隣人さんとを阻んでいた。

「……ま、ないか」

 そんなドラマ的展開が日常にある訳ない。
 諦め、脳内で断定の言葉を吐いたら、隣の方から聞こえてきたのは、ドアの開く音だった。


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 キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!

 と、いうヤツか!! と思った瞬間興奮しすぎて、結露で汗をかいた瓶を持つ手がつるっと滑った。
 で、瓶の落下地点は足の甲。

 しかもこう……骨の上に丁度よく、一番痛い当たり方で。

「ぉ、ぐ、っぅう……!」

 手から瓶が滑り抜けた瞬間に追い掛けたおかげで、足の甲へぶつかったと同時に、瓶を捕まえられたけれど。

 ――痛すぎる……っ!!

 もしも床に落ちて割れた瓶の後片付けやら何やらを思えば、この痛みで甘んじるべきか。
 痛みに涙を滲ませつつそんな事を考え、静かに唸って足の甲を擦っていると、すんっ、と横から聞こえた。

 ――……待て待て。

「……」

 じっと耳を澄ませる。

 するとやはり聞こえる、鼻を啜る音。
 しかも、しゃくりあげるという可愛い……いや悲しげな声音付き。

 ――確実に泣いてるぞ、これ。

 あの可愛い隣人さんとまた話はしたいと思っていたけれど、とても登場できる感じじゃない。

 どうする……どうするのが正しい!? と若干のパニックで私は挙動不審だ。

 喋った事があるとはいえ別に友達でもないし、そんな隣の住人に泣いてる姿なんて見られたくないだろうと室内へ続くドアに手を伸ばしては、いやここで去るのは冷たすぎるかと思い直して隣のベランダとの仕切りの壁へ近付いてみたりする。
 もちろん、物音足音を立てずに。

 だって、なんか……。向こうが後から来たとはいえ、正直ちょっと気まずい。

 そうこうしていると、お隣さんは小さい声で、「ばがぁ……」と涙混じりの声で言い出した。


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 ――なんだその無茶苦茶可愛いセリフ……っ!

 心の中で私は叫んだ。
 喉にぎゅうぅと力を込めていないと、ついつい「可愛い」と告げてしまいそうなくらい、可愛い。

 泣いているから声はふらふらと安定していなくて震えているし、鼻にかかった声がまたギシアンの時と似て……って何考えてんだ私はこんな時に!

 随分とご無沙汰で万年発情期な自分の頭を抱えていると、自宅と隣のベランダの仕切りの壁が、ゴン、と音を立てた。

「ばぁがぁ……っ」

 目を丸くして壁を見つめる私のすぐ側で、その音はゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、と定期的に続く。

 いや別に、ポルターガイストではなくて、隣人さんが「馬鹿」と言いながら仕切りの壁を叩いているだけだと……思う、たぶん。見えないから、なんとも言えないが、察するにそういう感じだろう。

 背も小さくて大人しくて可愛い人って印象がある隣人さん。
 そんな人が、泣きながら物に当たるほどに、悲しい事があったのか。

「……」

 私は無言のまま、仕切りの壁を見つめる。
 この向こうに、……泣いてるあの人が居る、のか。
 馬鹿と彼女が罵る対象が、自分なのか、他人なのか、それすら分からない。例えばお仕事で自分が何か失敗しちゃったから「馬鹿」と言っているのか。それとも、誰かに何かをされて「馬鹿」と言って泣いているのか。

 何も、分からない。

 ――……慰めてあげたいし、私が何か、力になれたらいいのに。

 鼻を啜る音、泣き声、壁を叩く音を聞きながら私は仕切りの壁へと近付いた。

 馬鹿と罵る言葉は一体誰に、もしくは、何に向けられているのか。
 私がしてあげられる事は……何かないのか?

 込み上げる感情で、鳩尾の辺りが、やけに熱い。
 多分、私自身の過去悲しかった経験を少なからず思い出しているから、こんなにも感情が揺さぶられるんだと思う。
 悲しい時、誰も、何も、頼れないのは…………辛いと知っているから。 

「もぉ……なんでよっ……」

 彼女がずびっと鼻を啜って、また、仕切りの壁を叩いた。

 そしたら、壁に穴が開いた。


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「うわぅ!?」
「ぃえええっ?」

 私と隣人さんは、ほぼ同時に驚きの声を上げた。

 まさか仕切りの壁に穴が開くなんて思っていなかった私は、それに穴が開いた瞬間、驚き過ぎて大きく後ろへ飛び退いた。

 数歩離れた所から見れば、随分と大きく穴が口を開けている。
 いやでも、なんかもう、穴って言うよりは、ちょっとした小窓って感じの大きさだ。

 その小窓の向こうへ居る隣人さんは、仕切りの壁をぶち破ってしまった事にも驚いただろうけれど、すぐ傍に私が居た事には更にびっくりしている。

 潤んだ目を真ん丸にして、私を見つめたまま、彼女は、ずびと鼻を啜った。

 え……えっと……。

「こ、こんばんは」

 私はどう声を掛けるべきかと迷った末、夜の挨拶をするという脳無し具合だが、

「あい……」

 ぺこ、と頭を下げてくれる隣人さん。

 ――か……可愛い……っ。

 こんな時でも可愛いなこの人はっ。
 「あい」って。涙声で「あい」ってそんなのもう可愛いだろ! 萌え以外の何でもないよっ!
 内なる私が、萌え萌えしすぎて悶えている。

 て、そんな場合じゃなくて。

 泣いてるんだよ、この人は。

 先程、反射的に数歩分飛び退いたせいで、彼女と距離が出来ている。

 私は仕切りの壁へ近寄って、かなり大きめの穴に手突っ込み、さらに手をのばして、固まっているお隣さんの頭を撫でた。
 うわ、髪、ふわっふわでさらっさらだ。

「……ごめん、うるさかった?」
「いや全然っす」

 いきなり頭を撫でるなんて失礼だったかなと焦ったが、ちょっと俯いて頭を撫でさせてくれる隣人さん。

 ――嫌がられなくてよかった。

 私は密かに胸を撫で下ろし、抵抗されないのをいいことに撫で続けた。
 大人しくされるがままで居るという事はきっと……これが彼女にとって必要なことなのだろうから。


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 会話はなかったけれども、しばらくそうして撫で続けていると、私の耳にぱたりと音が届く。

 私達が無言で、この時間は街の喧騒も少なくほぼ無音だったからかもしれないけれど、床へ落ちた涙の音は、雫ひとつでも、とても大きく感じられた。

「……」

 その一滴をきっかけに、隣人さんはまた……泣き出した。

 分かる。わかるよ。
 辛いときに優しくされると、脆いもんだよな、人間。

 彼女の涙が、部屋からの明かりを反射してきらきら輝きながら床に落ちていく。

 次から次に、重力に恋したように、床に引き寄せられ落ちていく。

 弾けた涙は、簡単に床の色を濃くする。

 ぽろぽろと、次々に頬から零れる涙は、私の目には綺麗で仕方なく映った。


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「ちょっと、すみません」

 一言断って、私は仕切りの壁の穴に手を掛けた。
 少し強く引っ張ると、難なくバキと剥げる壁。

 上と下の壁へ1回ずつ手をかけて、折るようにして剥がせば、人ひとり通れる程度の大穴が出来上がる。

 結構、力要らないんだなコレ。
 まぁ火事とかでベランダから逃げるのは、力持ちな男性ばかりじゃない。子どもが破れなきゃ意味ないから、そこまで強度は無い物なのかもしれない。

 大家、ごめん。
 でも人助けだから器物損壊は許してくれ。

 心の中で謝って、私は隣のベランダに足を踏み入れた。



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 私の行動の一部始終をポカンとした表情で見守っていた彼女に、「失礼」と短く断って、できるだけ優しく、抱き寄せた。

 ――ほっそ……。

 すぐ傍に並んで立てば、結構身長差はある。
 遠くから見ていた時も、背が低い人だなとは思っていたけれど、抱いてみると更にその小ささが際立つ。
 私の腕にすっぽりと収まってしまう程、小さい体。

 華奢な腰だなぁと考えながら、私はまた、隣人さんの頭を撫でた。

「元気でるまで傍に居ます」

 抱き締めながら、撫でながら。
 私が言った言葉に返事はなかった。

 けれども、彼女が背中に腕を回してきてくれたので、よしとする。
 嫌ならきっと、そんなことはしないだろうから。

 ほっと一安心。

 と、言っても。

 私はどきどきなのである。
 腕の中に居る彼女からは、その温もりが伝わってくる。けれど逆にそれは、私の激しい心音が向こうにも伝わっているという事だ。

 多少なりとも、気にはなっている人が、自分の腕の中にいる。
 しかも、相手の腕は私の背中へ回されていて、服をぎゅっと掴んでいる。

 彼女が泣いているのは重々承知だ。
 泣くということは、それなりに悲しい事、辛い事があったというのも重々承知だ。

 けど……不謹慎でも。
 私にとってこの状況はもう、……もう、頭がおかしくなりそうなくらい、嬉しいものだった。



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 丁度、私の肩口の高さに彼女の額がある。
 大体頭いっこ分、身長差があるのか。

 まぁ私も背は高いほうだと思うから、この人が特別低身長、ってことでもないんだろうけれど……何センチなんだろう、背。

 マジで可愛いなぁ。シャンプーなに使ってんだろ、いい匂いがする。

 涙は女の武器、と言うけれど、泣く女の姿の方が武器かも、あ、でも泣いて赤くなった目元や鼻もかわいい。

 いや。でも。

 なにより、ぐっとくるのは、背中に回された腕とか服を掴む手だろぉぉぉぉっ。

 あー。やばい。
 幸せだ。

 なんて、慰める気が全く無いような万年発情期な内容の考えを滔々と抱きながら、私はずっと隣人さんの頭や髪や背中を撫でていた。

 慰めろ、と言われても私には彼女の事情や状況が全く掴めていない。そのために、泣く彼女に事情説明を強要する訳にもいかない。
 だからと言って、適当な励ましや慰めの安い台詞を言いたくはない。
 そんな上辺だけの人間に思われるのは嫌だ。

 辛いとき、私だったら傍に居て欲しい。何か慰めの言葉をくれというのでは無くて、傍に居てくれたらいい。
 温もりがあるだけで、随分救われることを、私は知っている。

 彼女もそんなふうに思って、私の温もりに少しでも癒されてくれたらいいのに、と、それまでよりもちょっとだけ隣人さんを抱く腕に力をこめた。



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 すん、と鼻を啜った彼女が、私の肩口から胸辺りに押し付けていた顔をもぞもぞ動かした。

「ごめん……服汚しちゃったぁ……」

 若干間延びした声はまだ涙声だけども、すこし、元気があるように感じられる。

「いいっすよ、そんなん」

 洗濯すれば済むし、服汚すくらいで、この人に元気が戻るなら、泥まみれにだってしてくれって感じだ。
 よかったよかった、と内心呟きつつ、それでもまだ抱き締める腕は解かず、髪を撫で続ける。

「ねぇ」

 泣き顔を見られるのが嫌なのか、隣人さんは顔をあげないまま話しかけてきた。

「はい?」

 まだ少し、鼻にかかった声なのも可愛いなぁなんて思いながら、返事をする。

 なんだろう?
 泣いてスッキリした、って言われるかな。
 それとも、泣いた理由を聞かせてくれるのかな。
 相談とか、されるのかな。

 様々な予想をしながら隣人さんの次の言葉を待つ私だが……。

「……」
「……」

 い、いや何か言ってくださいよ!?

 泣く女性を抱き締める腕はあっても、さすがに読心術の心得はない。
 言葉を続けない彼女の頭を撫でながら、私は迷った。

 私は、相談を受けるとき、相手が喋りたいなら聞く。
 そうでないなら、傍で黙ったまま傍に、というスタイルだ。

 学生の私は短い人生だが、これまで相談を持ち掛けられた経験はある。中学時代は結構色んな子から話を聞いた。
 まぁ大抵、相談をしてくる相手は友達な訳で、お互いに性格もそこそこ理解し合っている。だから私のスタイルが通用するのだが、この人は単なるお隣さん。
 私の性格を知る訳でもなく、理解が深い訳でもない。

 となるともしかして……何も言わないでいると、「何この冷たい人」とか思われる……!?

 や、それは避けたい避けなければ!

 で、でもこういう時、普通なんて切り出すもんなんだ……?



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 内心オロオロしているが、それを相手に悟らせては女が廃る。
 ちっぽけでもプライドが自分にもあるらしく、私は黙ったまま彼女の頭を撫で続けた。

 撫でる。

 撫でる。

 撫でる。

 そのまましばらく時間が経ち、ある時、彼女が深く息を吸った。
 細い肩が少し持ち上がり、私の腕の中にある小さな体がちょっとだけ膨らむ。

 息を吸ったということは、話を始めてくれるのかな、と私の中で期待が膨らんだ。

 けど。

「はー……」

 彼女は息を吐いた。

 え……っと……?
 こ、これは何かのサイン?

 な、なんか言うべきなのか……!?

 え、えーっと……。

 じゃ。

 じゃあ……。

「落ち着きましたか」

 気の利いた台詞ってなんなんだーっ!?



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 叫んだ内なる私が貧相なボキャブラリーしか持たない自分の頭に拳骨を叩き込んでいる。
 もっとやれ、内なる私。

 こんな可愛い人に、気の利いた言葉の一つもあげられないとか、最低か、自分。

 そんな私をよそに、彼女は私の胸に額をぐりりと押し付けてから小さく頷いた。

 ぇ……ってことは……、ちょっと落ち着いた、ってコト、か。

「あったかいー」

 胸に顔を押し付けたまま彼女が喋るので、吐息が服へ篭り、ぼわっと温かくなる。
 そうすると、今更ながらに、他人を抱き締めて超密着しているのだと認識した私の心臓が、走り出す。

 一方、そんな私を気にかける訳もなく、隣人さんはくぐもった声で喋った後すぐ、私の背中に回していた腕へ、力を込めた。
 背中の服を握ったままの腕で、ぎゅっと、された。

 そうなると当然、抱きしめられ……というか抱きつかれる状態で、更に密着度が上がる。

 ――なっ、なんだなんだなんなんだよ急に……っ!?

 いやあの、見て分かってたけど。ちょっとは知ってたんだけど!
 胸が……でかい……って!!

 ここまで密着したらもう分からない訳がない。
 私とは正反対に、この隣人さん胸がでかい。ふにゃっと柔らかいのが潰れてるから!

 多分この隣人さんは私が女だから全然そういうやらしい思考をしてるとか考えてないんだろう。でもこちとらレズビアン。女性の身体にはとてもとても惹かれるし、今、吐血しそうなくらいに、幸せなんですが。

 い、いやいやいやいやでも! クールに! クールにしてろ自分。
 ここではしゃいだら、全部台無しだぞ!?

「暑くないですか?」

 いやクールって! そういう意味じゃない!
 いま夏だけど! 今日もすごく蒸し暑いけどさ!

 やはり気の利いた台詞の一つも捻り出せない残念な頭の自分に軽く落ち込みつつ、平静を装う私の内心を知ったら、この隣人さんはきっと呆れるだろう。

 だけど彼女は柔らかい声で言葉を紡ぎながら軽く首を振った。
 それと同時に、私を抱き締めていた両腕が、緩む。

「んーん。あったかくてちょうどいい。……でも」

 言葉を区切って、彼女は私から体を離した。
 すうっと二人の間に夏の夜風が入り込んで、寒いというより、寂しく感じるのは……なんでだろう。

「あまり甘えるのも、よくないね」

 いやいや全然。むしろウェルカム。ばっちこーい!
 という馬鹿みたいな心の叫びは仕舞い込んで、「構いませんよ」という感じで、私はゆっくり首を振って見せた。



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 甘えてくれて構わないとジェスチャーしたのに、それでも彼女は私から一歩離れ、顔をあげて、にっこりと笑う。

「ありがと。だいぶ、元気出たよ」

 なんて言っているけれど、鼻の頭は赤いし、目元も同じく赤い。それに、笑って目を細めたせいか、目尻からぽろっと一粒の涙を溢す始末だ。

 その様子はお世辞にもまだまだ「元気だ」と言うには程遠かった。

 隣人さんは、泣き止んだはずなのに自分の目から涙が零れ落ちると、「あららら」とまるで他人事のようなリアクション。

 ――もう頭も撫でたし抱き締めたし、ついでだ。

 一歩離れた距離なんて、手を伸ばせば、すぐ届く。

 やっぱり綺麗な色の涙を流す人だな、と考えながら、私は彼女の頬を指で拭った。

 抱き締めたり、頭撫でたりしたけど……頬に触ったのは流石になんか、言われちゃうかな……。



  

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 私の心配と不安を他所に、隣人さんは照れたようはにかんだ後、

「ご迷惑おかけします」

 と、お辞儀した。

 ――か、か、か……可愛い…………っ!!

 な、なんなんだこの可愛さ。この人と廊下ですれ違う時大概スーツ姿だから社会人なんだと思うけど、そんな年齢に反してやる事が可愛過ぎないかこの人……!

 またも抱き締めたい衝動に駆られたけど、我慢、我慢。
 我慢だ。ここはクールに決めないと。

「何かあったら、言ってください。いつでも金本さんのためなら空けときますよ」

 確か、隣の部屋の表札は金本だったと思う。
 私が突然、相手の名前を出したからか、ほんの少しだけ意外そうに眉をあげた彼女だったけれど、何故知っているかすぐに見当がついたのだろう。表情を和らげて、頷いてくれた。

「ありがと」
「いいえ。じゃ、おやすみなさい……と、おじゃましました」

 ぶち壊した仕切りの壁の残骸を乗り越え、自分の部屋のベランダへ帰る。

 あーこれ、どうするかなぁ。今日はもう暗いし何も出来ないから、対処するのは明日かな。

 足の甲の上へ落下させた後、そのままベランダの端へ置きっ放しにしていた瓶ビールを回収していると、後から声を掛けられた。

「なんでも、いい?」
「え?」

 突然の質問に振り返った私は、なにがだろうかと片眉をあげる。

「何かあったら、言っていいのは、どんな事でもいい?」
「ああ」

 そういうことか。

「私にできることなら」

 私なんかに出来る事は少ないだろうけれど、出来る事があれば、力にはなりたい。



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 そう答えて頷いた私に、隣人さんは笑顔を見せた。

「金本愛羽です。名前、教えて?」

 彼女はちょこんと、首を傾げる。

 やばい。

 すごい胸きゅんした。

「あ……安藤雀、です」

 ここまでクールを貫き通したのに、多分、今、私の顔は真っ赤だ。

 だって……可愛いすぎるぞこの隣人!!
 不意打ちにそんな可愛い仕草してくるなんて卑怯だ! でももっとやってくれ!! さっきのめっちゃ可愛かった!!!

 なんて馬鹿な叫びを心の中であげていると、隣人さん……もとい、金本さんは嬉しそうに笑った。

「雀ちゃんかぁ。かわいい」

 違う。

 可愛いのはあなたです……!!

「ありがと。じゃあ、またね」

 私が金本さん可愛い可愛い可愛いと、頭の中でお祭り騒ぎをしている隙に、彼女は手を振って、自宅へ入っていった。
 おやすみなさいも、さようならも言えなかったくらい綺麗に去った人の住む家のベランダを見つめて、私は瓶を持つ手を少しだけ力ませた。

 私の下の名前を聞いて、一番最初に「かわいい」などと言う人はとても少ない。
 驚いて目を開くとか、「鳥?」とか「変わってるね」とか、そんな反応はごまんと見せられてきた経験を持つ。

 なのに金本さんは、お世辞っぽくもなく「かわいい」と言ってくれて、愛想笑いっぽくもなく、笑顔を向けてくれた。

「……」

 心臓の辺りが熱くて。
 鳩尾の辺りはざわざわして、落ち着かない。

 頭の中では何を考えているかというと、”金本アイハ……ってどういう漢字書くんだろう”とか”あまり聞かない名前だけど……彼女も珍しい名前仲間かな”とか、なんとなくの親近感を覚えていた。

 私は首筋にかいた汗を手で拭ってから、左分けにしている前髪をがしがしと掻く。

「暑いな……」

 早く、冷房のきいた部屋へ入ろう。
 火照った頭を、冷やさないと。



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