◇◇◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◇
翌日、店長の家に居候の荷物を取りに行くと、遥さんに悲しまれた。
一緒にゲームをやったり、料理を教えてもらったり色々したのは楽しかったけど、そこまで悲しまれるとちょっと帰り辛いよってくらいに。
「いっちゃうの?」
「あ……はい」
「絶対?」
「……はい……」
座ったまま腰にしがみついてくる遥さんに、ごめんなさいと言いかけたとき、彼女の頭に手刀が叩き込まれた。
「コラ。すーちゃんの恋路の邪魔しないの」
「いたいー…」
「こ、恋路って……店長」
”恋”という言葉が居心地が悪くて、でもそれをしている自覚はあるから困った表情を店長へ向けたんだけど。
「なんとなく、いい顔になってる。何か決心したんでしょう?」
店長が言った。
そして遥さんを私から引き剥がしながら、店長はまっすぐに眼の中を見つめてくる。
「……それが良いのか悪いのかは別にして、ね」
本当に、洞察力が高い。
さすが、このくらいでないとバーのマスターは務まらないんだろうなぁ。
「店長のおかげです」
「アタシはなんにもしてないわ。すーちゃんが頑張ってるだけよ」
そう言われて、返答に困った。
私にしてみれば、追い込まれた結果の行動で、自発的な事はしていない気がする。
だから頑張るには程遠いような気がしてならない。
「……私は頑張れてないです、べつに」
「少なくともアタシには、頑張ってるように見えるわよ?」
「そう……ですか?」
私が否定しているのに、店長はそれを否定した。……してくれた。
店長が言うなら、そうなのかなぁ……。
店長に頭を撫でられて、遥さんに見送られて、家を出る。
私は本当に幸せ者だと思う。
◇◇◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◇
家に戻る途中で少し早い昼食を済ませ、帰宅すると私は部屋の掃除を始めた。
しばらく居なかったから布団とかも干した方がいいだろう。
ベランダに布団を干し、今日はやたらと天気いいなと晴天を見上げる。日差しが目に痛いくらいだ。
「雀ちゃんっ」
「わ!?」
サッと隣のベランダのドアが開き、金本さんが慌てた様子で飛び出してきて、顔を顰めて頭をおさえた。
あの動作は……やっぱりどうやら、二日酔いらしい。
「大丈夫ですか?」
気の毒だが昨日あれだけ飲んだのだ。
お酒の後に水分補給もせず、金本さんは寝ていたから二日酔いは避けられないだろうなぁと思っていたが、その予想は的中した。
「いたたたた……うん。これ……ありがと」
金本さんが右手で頭をおさえて、左手で握っていたアルコール分解ドリンクを振って見せた。蓋が開いている様子からして、その中身はもう彼女の胃の中なのだろう。
金本さんに触れて、逃げるように帰った家で気付いたのだ。「明日絶対二日酔いで辛いよな……二人とも」と。
そして引き返して彼女の家のテーブルに2本置いて帰ったアルコール分解ドリンクを、気付いてくれたらしい。
「どういたしまして。かなり効くんで、すぐ楽になりますよ」
「ありがと。……昨日、わたしたちすごい迷惑かけたよね? ホントごめん」
途中から記憶がないし、朝起きたらまーと一緒にベッドで寝てるし……本当お世話おかけしました。と、金本さんは頭を下げた。二日酔いの頭なんて、揺らしたくないだろうにそんな深々と。
私は首を振り、手を振り、頭を上げてくれとお願いした。
「いや、お礼は店長に言ってください。ここまで店長に送ってもらったんで」
「う……あの人か……」
何故か渋い顔をした金本さんの後ろから、まーさんがひょっこり顔を出した。
「おはよー」
「おはようございます。まーさんは、元気そうですね」
「んやー、そうでもないから、これ飲ませてもらった。ありがとね」
「いえいえ」
私と話すまーさんを、首だけで振り返って恨めしそうに睨む金本さん。
「なんでまーより飲んでないわたしが二日酔い?」
「日ごろの行いの悪さ?」
まーさんの腹に、肘が入った。
◇◇◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◇
それからしばらく雑談をして、まーさんがお腹が空いたというので、お二人は昼食をとりに出かけた。
私は掃除を済ませ、残っていた課題を片付けるともう夕方。
久しぶりに冷蔵庫を開けると、
「しまった……」
と項垂れた。
ほとんどの食材が賞味期限切れ状態だ。
店長と遥さんに甘えすぎた罰があたった……。
明日がゴミの回収日だった事に感謝しつつ、冷蔵庫を整理。
財布と鍵だけを持って、スーパーへ向かう。
何にしようかなぁ。
カゴを片手にぷらぷら歩き、適当に食材を放り込む。
途中で、無塩バターが安かったのでそれならクッキーを久々に作ろうと思い立ち、カゴへ入れる。
随分お世話になったし、店長にあげよう。
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夕食は適当に、肉野菜炒めとご飯に味噌汁。
ちゃちゃっと済ませて、お菓子作りを始める。
何故こんなに急ぐかというと、明日がバイトだから。
お礼はやはり早いほうがいい。
余っても使い道が無い無塩バターを全部使い切ると、クッキー生地は相当な量になった。
「まぁ……太郎君とかにもあげればいいか」
彼は、甘い酒は飲まなくても、甘いお菓子なんかはパクパク食べる。
スタッフルームにあるお菓子のほとんどが、彼の胃に納まるのだ。
オーブンを覗いて、順調な焼け具合を確認してから、ベランダのドアへ向かう。
換気扇を回してはいるけれど、部屋が甘い匂いで充満している。
ドアを開け放って、布団を干したままにしていたコトに気付き、慌てて取り込んでいると、オーブンが鳴った。
どうやら焼きあがったみたいだ。
あと3回分焼けるくらい生地あるけど。
◇◇◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◇
2回目の生地をオーブンに突っ込み、スイッチぽん。
焼きあがったクッキーを一つつまんで、味見。
「うまい」
別に自画自賛するわけじゃないけど、私のクッキーは結構イケると思う。
あ、これが自画自賛か。
「……にしても、甘い臭い」
胸焼けする。
瓶ビール片手に、またベランダに戻る。
置きっぱなしの椅子に座って、夜空を眺めながら、晩酌。
久々の晩酌に月を探したけれど生憎と、今日は月が見当たらなかった。
どのくらい経っただろうか。
突然、隣のドアがサッと開いた。
「こんばんは。姿が見えたから来ちゃった」
本日会うのが2回目の金本さんがにこりと微笑んで顔を出していた。
◇◇◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◇
「こんばんは」
深呼吸して、心臓を落ち着ける。
見えたから来ちゃった、ってなんでそんな可愛いこと言うかなこの人……。
別に他意は無いんだろうけれど、なんかこう……クるものがある。
変にデレデレしないように気を付けている私を他所に、すんすん、と匂いを嗅ぎ、金本さんは首をかしげた。
「なんか甘い……匂い?」
「ああ今、クッキー焼いてるんです」
「クッキー? 作れるの?」
「ええ。食べますか?」
「うん。食べたい!」
お菓子が好きなのか、金本さんは目を輝かせながらコクコク頷いた。
OLさんだけど、ちょっと子供っぽい所もあるんだな。
ちょっと待っててください。と言い置き、私は部屋に戻る。
……甘ったるい匂い……。
丁度、2回目のが焼きあがった。
待たせるのは申し訳ないと思ったが、3回目の生地をオーブンに入れる作業を優先。
次々焼かないと、寝るのが遅くなる。
それに、あげるなら焼き立てがいいだろう。
3回目のクッキー生地をオーブンへ入れ、スイッチぽん。
そして、さっき焼きあがったばかりのクッキーをいそいそと包む。
彼女の口に合えばいいけど。
◇◇◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◇
ベランダに戻ると、彼女は外の街並みを眺めていた。
「お待たせしました」
どうぞ。と渡すと、金本さんが両手で受け取ってくれる。
「こんなに、いいの?」
「ええ。余りまくってるんで、もらっていただけると助かります」
「ありがと。食べていい?」
断る事でもないし、反応が気になるので頷いて、口に合うかドキドキしながら金本さんがクッキーを口へ運ぶ様子を目で追った。
と、不意に目に留まる、その唇。
艶やかで、柔らかそうな唇。その奥に微かに覗いた白い歯と赤い舌。
い!!
いかん!!!!
なに発情してんだ自分!! おさえろ! 今朝未明に秘めて見守る恋をするって決めたはずじゃないか!!
◇◇◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◇
「おいしい!」
その声で、ハッと我に返る。
「へ? あ、ああ、ありがとうございます」
「焼きたておいしーい。初めて食べた」
私は初めて、物を食べている唇に欲情しました。
どんだけ欲しいんだ。
自分にびっくりする。
ちょっと、ここに居るのはマズイ。
一度気にし始めると、それはそれは気になるもので、彼女の唇、非常に魅力的過ぎて、こまる。
――……これは今までで一番、いかん……!
開き直ると決めたからか、なんかこう、金本さんのなんにでもときめいてしまいそうな自分がいる。
だ、だめだ。部屋に戻ろう。彼女と同じ空間に居ない方が絶対いい。
「あ、次のやつ、焼く準備があるんで、戻りますね。おやすみなさい」
口早に言って、部屋に戻ろうとすると、服の裾を掴まれた。
もちろん私の服を掴んだのは金本さんで、後ろに引っ張られ、仰け反るように立ち止まる。
「あのっ、また……バーに行っていい? 今度は絶対迷惑かけないから。ちゃんとセーブして飲む!」
「え、っと」
「本当にちゃんとするから! ほら、こないだのお金も払ってないし!」
「あれは店長のサービスだそうで……」
「じゃあその分、飲んで売り上げに貢献するから!」
い、いやセーブして飲むんじゃ……と言いかけ、下から見上げてくる瞳に捕まった。
心臓が大きく、ドクン、と脈打つ。
「お願い」
金本さんの熱心な言葉と、眼差し。
気にしなくていい、と言って強引にでも家に入ればよかったのに、私は…………負けた。
「どうぞ……いらしてください」
「次、いつシフト?」
「明日……」
「じゃあ明日行く」
「ならお席、お取りしておきます」
「ありがと」
約束を取り付けると、「おやすみっ」と金本さんは自分の部屋に飛び込むようにして戻っていった。
金本さん。
あの顔は……卑怯だ。
好きな人に上目遣いで……お願いなんかされたら…………負ける……。
――だって……秘めるって言っても、好きだもん。
優柔不断で情けない自分に、深く、深く、溜め息をついた。
◇◇◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◇
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