隣恋 第16話 カウンターの向こう

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 カウンターの向こうに、ウキウキした表情で次のお酒を待っているまーさんと、それを面白くなさそうに頬杖をついて眺めながらスコッチキルトを傾ける金本さん。

 ――あー……スーツ姿でバーで飲む女性っていいなぁ……。

 向こうの方で片付けしながら、バレないように二人の事見てたけど、やっぱ、好みなんだよなぁ……って、いかんいかん。
 仕事だ仕事。まーさんにカクテル作らないと。

 で、当のまーさんはというと、姿を現した私をあんぐりと口を開けて見ている。それをタイミング悪く、少なくなったカクテルの最後を呷っているため見逃す金本さん。
 苦笑しながら私は、トールグラスにクラッシュドアイスを詰める。
 アプリコットブランデー、ココナッツリキュール、パイナップルジュース、牛乳をシェイカーに入れ、よくシェイクする。

 その作業を凝視しながら、まーさんが隣をばしばし叩く。私が居ることに早く気付けって事なんだろうけど、金本さんは横っ面を叩かれてる。いたそう。

「いたっ、なになんなの?」
「見て! ほれ!」
「だからいたいって……え……」

 コースターと共にアプリコット・コラーダのトールグラスを「お待たせしました」とまーさんの前に滑らせ、ちょっと呆けてる金本さんと目を合わせた。
 こうしてきちんと顔を合わせ、目を見て口をきくのは一体……何日ぶりになるんだろう。

「こんばんは」

 言ったーーーー!
 どうだ店長! 平静を保ってるだろう!

 心の中で威張ってみたものの、心臓がバクバクいっててさっきはシェイカー持つ手も震えてた。



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「な……」
「なんですずちゃんがバーテンやってるのー!?」

 金本さんのセリフを引き継いだまーさんの大声。
 慌てて口の前に人差し指を立てる。

「まーさんっ、シー…!」

 ここはバーだ。
 そんな場所にそぐわない大きな声。いくら私の登場が予想外で驚いたとしても、駄目だ。
 他のお客様がびっくりしてこっちを見ている。

「あごめ、でも、えーっ、びっくりしたー! ねぇ愛羽? ……愛羽?」

 まーさんに返事がない金本さん。
 どうしたんだ? と思ってまーさんから視線を移せば、どうも私のことをじっと見ていたようで、彼女は視線が絡むや否やハッとしたように隣へ顔を向け頷いた。

「うん。……すごいびっくりした」

 若干まだ驚きが尾を引いているのか、茫然とした口調に近い金本さん。
 彼女の手元には、空になったグラスがある。

「驚かせてすみません。金本さん、何かお作りしましょうか」

 彼女が頷くので私は空のグラスを引き、なにが好きなのか好みが分からないので尋ねる。
 さっき太郎君はスコッチキルトを作ってあげていたみたいだけど……?

「どんなのが、お好きですか?」
「えーと、じゃあ……スッキリしたのって、ある?」
「お任せください。さっきのより、きつくないの作りますね」
「うん。さすがにちょっと熱い……」

 そう言って、金本さんは手で頬をおさえた。
 色もちょっとというよりは、随分と赤みが増しているし、火照っているんだろう。
 大丈夫かなぁ。さっき最後に一気してたし、ここに来るまでにも飲んでるみたいだし。

 ドライジン、オレンジジュース、ジンジャーエールをタンブラーに注いで、新しいコースターと共に、金本さんの前に滑らせる。

「ブルドッグハイボールです」

 ハイボールとはいえ、オレンジジュースとジンジャーエールで薄めているから、このカクテルは随分とアルコール度数は低い。
 そして味わいも、甘いと言える要素がオレンジジュースくらいしかないので、さっぱりしている。


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 「あれ? シャカシャカしないの?」

 使ったドライジンの酒瓶を片付ける私に、まーさんが不思議そうな問いを投げかける。
 シャカシャカってシェイクのことか。

「カクテルにも作り方がいくつかあって、これはシェイクしなくていいものなんです」
「へぇー。でもシャカシャカしてるとこ見たいなー。かっこよかった」

 隣で、杯に口をつけながら、金本さんが「見たい見たい」と頷いた。
 さっき、まーさんにアプリコット・コラーダを作った時、まーさんは私を見ていたけど、金本さんはこっちを向いていなかった。だからそんなにも熱心に言ってくれるんだろう。
 そう言われると振りたくなるが、むやみやたらとシェイカーは振るものじゃない。

「じゃあさ」

 まーさんはゴクゴクと喉をならして杯を空ける。
 おいおい、ビールじゃないんだから。

「シャカシャカするの、作って」

 タン、と空の杯をコースターに置いた。



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 シェイクが見たい、との要望だから、強いシェイクを要するグラスホッパーを作ることにした。

 ミントリキュール(緑)、カカオリキュール(白)、生クリームをシェイカーに入れ、構えようとしたとき、4つの瞳がこちらを凝視しているのにはたと気付く。
 ま、まぁ……シェイクが見たいという事から始まったオーダーだから、見られてて当然なんだけど……。

「……そんな見られると、恥ずかしいんですけど……」
「なに言ってるの。魅せるのも、バーテンダーの仕事よ」

 横から店長がにやにやしながら言う。
 確かに店長には「振るなら綺麗に」という鉄則みたいなものを叩き込まれた。

 でも!

 でもこんなにガン見されてる中で振るのはちょっとどうなの!?
 片方は、好きな人なんですけど!

「ほら、お客様をお待たせしないの」

 店長……。

 ……ぜったいこの人、楽しんでる……。

 ちょっと溜め息をついて、私は新鮮な空気を鼻からすっと取り入れ、下腹に力を入れた。
 シェイカーを一度握り直し、構え、振る。
 中で氷がぶつかって小気味良い音が耳元で鳴る。
 私はこの音が好きだった。

 いつもより多めに振って、丸底カクテルグラスに注ぎ、まーさんの前にお出しする。

「お待たせしました。グラスホッパーです」



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 そのあと、まーさんは何杯飲んだだろうか。
 店に来たときよりも、更に酔って、目が据わっている。

 そして、その隣では……眠る金本さん。
 たぶん、太郎君が作ったスコッチキルトがきいたんだろう。

「もうお客も居ないし、閉めようかしら」
「いいんですか?」

 店長と太郎君が、お店を閉める相談をしている。

「すーちゃん、この二人アタシが車で送るから。先に着替えてきて。片付けながら、二人の事見てる」

 すみませんと断り、いったん奥へ引っ込み急いで着替えた。
 慌てて店内へ戻ると、まーさんも眠そうに目をこすっている。
 それでも、お化粧が崩れないようにおもいっきり瞼を擦らない辺りは、流石、毎日お化粧してるOLさんだなぁって感じ。

「ゲロゲロしないぶん、可愛い酔い潰れ方よね」

 レジのお金を計算しながら、店長が笑う。
 あ、二人が飲んだ分、私が払っといた方がいいのか。

 財布を出そうとすると、店長は手を振った。

「サービスよ」

 片目を瞑ってみせる店長の様子……たぶん、元々、サービスするつもりだったように思える。が、それでもこの二人は私の知り合いなんだから、と払おうとしたらちょっと怖い顔をした店長に頭を叩かれた。

「こういう時は甘えればいいのよ」
「あ……ありがとうございます……」

 いてぇなぁと内心思いつつ、私は頭をぺこんと下げた。



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「まーさん、ほらしっかり歩いてください……!」
「ぬうぅん」

 なに、ぬうぅんって!? とか思いながら、よたよたするまーさんに肩を貸して、店長の車まで誘導する。

「大丈夫ですか」
「……なんとか」

 私と店長の後ろをゆったり歩く太郎君。
 その腕には、金本さんが抱っこされている。俗に言う、お姫様抱っこだ。

 ゆすっても起きない彼女を、太郎君が運んでくれている。
 こういうとき、男性が一人いると助かるけど…………うぅ。

 私だって鍛えてるから小柄な金本さんくらいならお姫様だっこできる! けど……店長が太郎君に「抱いて来て」と指名してたから……なんかそのまま流れでまーさんの担当が私になっちゃったって感じだ。

「そんな顔しなくても、僕はこの人に興味ないですから大丈夫ですよ」
「な、べ、べつに何も思ってないよっ」
「なぁに? 嫉妬してるのすーちゃん?」
「だからそんなんじゃないっす!」

 店長が、車のドアを開けながらにやにやする。

「顔、赤いけど?」

 うるせっ。


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「じゃ。お疲れ様です」

 金本さんを後部座席へ寝かせた後、何事も無かったかのように、太郎君が去った。

 辛うじて寝ていないまーさんを助手席に。
 完全に寝入っている金本さんを後部座席に寝かせると、私の乗る場所がなくなった。

 じゃあ私は走って帰るか……、と思案していると。

「すーちゃん、そこ」
「は!?」
「そこ、座れるでしょ」

 店長が指差したのは、後部座席の金本さんの頭がある位置。

「喜びなさい。膝枕よ」

 どちらかというと、されるよりする方が好きなんですけど……って違う!



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 乗らないとこの二人路地裏に捨てるわよとの脅しに負け、運転席の後ろに座る。
 ……金本さんを膝枕して。

 か。

 可愛い……。

 車を発進させ、しばらく無言で運転していた店長が、ミラー越しに私を窺った。

「鼻の下伸びすぎよ、すーちゃん」

 店長が、くすくす笑いながら言う。それはそれは楽しそうに笑っていらっしゃるけれども、笑いごとじゃあないんだよ本当に。

 ずっと見つめていた金本さんから視線を窓の外へ逸らし、片手で顔を覆う。

 熱い。暑い。熱い。
 顔、真っ赤だ。熱い。さっきから、心臓が耳にあるんじゃないかってくらい、ドクドクしてる。

「仕方ないじゃないすか……」

 鼻の下が伸びない訳がない。
 だってこんな絶景、見たことないんだ。

 好きな人の寝顔も初めてみるし、真上から見つめるのも初めてだし、膝枕するのも初めて。
 なにもかも初めてで、どうしようもなく、どきどきした。



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 途中で力尽きたら助けられないし、背負いなさい。そう言われて渋々金本さんをおんぶして、私は自宅マンションのエレベータに乗り込んだ。
 背中全体が温かいし、触ってる脚もストッキングの感触越しだけど柔らかい。

 ちなみに私のリュックは店長が持ってきてくれている。

「今思ったんですけど」

 ウィーンと音を立てて6階を目指して上り始めたエレベータの中で私はぼそりと言う。

「スカートでおんぶとかやばくないですか」

 店長の言いつけでその辺りは何も考えずに背負ったけれども、スカートが限りなくヤバイ位置までずり上がってるんじゃないだろうかこの体勢。
 そう思って、まーさんに肩を貸して支えている店長を振り返る。
 店長はまーさんの様子を窺っていたようだけれど、私の問いかけで金本さんの下半身へと視線を向け、「あぁ」となんでもない事のよう頷く。

「七割方」

 ちょっと待って何七割って!?
 どういう基準で七割なんだよっ!?

「見ないでください店長!」
「見えないわよギリギリ。おしいわ」
「見ちゃだめですってば!!!」

 おしいじゃないよ! 遥さんに言いつけるぞ!!
 店長を脅すにおいて最も効力を発揮する「遥さん」を使わせてもらおうとしたら、エレベータが目的階数に到着して、扉が開いた。
 廊下に誰もいない事を確認してから降りる。

 さすがにこんなヤバイ格好の金本さんを、周囲の住人に見せる訳にはいかない。
 乱暴な足取りにならないよう気を付けつつ、それでも急ぎ足で廊下を行き、失礼ながら探らせてもらった鞄から取り出した鍵で、金本さんの家にあがらせてもらう。

「おじゃましまーす……」
「さっさと行きなさい。どうせ本人聞いてやしないわよ」
「そういう問題じゃないと思いますけど待って、暗くて良く見えないんですって……!」

 長身のまーさんに肩を貸しているのも辛いのか、店長が急かすけれども、照明のスイッチを点けるまでは探るような歩みだ。
 自宅ならばすいすいと進むが、ここは他人の部屋で1度しか訪れたことがない。間取りも逆だから、手間取る。
 やっとのことで金本さんのベッドに辿りつき、ゆっくりと彼女を寝かせる。

「ずっと背負ってたいんじゃないの?」

 にやにやにやにや笑ってる店長。
 金本さんをベッドへ移す手伝いをしてくれながら、揶揄ってくる。

「そ、そんなことないですっ」

 起こしてはいけないかと思って、一応は声を潜めて言い返したが、私の声でちょっと覚醒に近付いたのか金本さんが「んん……」と小さく唸る。

 ――……やばい。可愛い。

 思わず眠る彼女の顔をじっと見てしまいたくなる可愛さだが、残るまーさんも、このベッドに押し込まないといけない。

「んー……ねむい」

 店長にほぼ寄り掛かっていたまーさんを促し、金本さんの隣へ寝てもらう。

「ほらちゃんと入って寝てください。風邪ひいても責任とれませんよ」

 シングルのベッドに、二人を押し込んで、私達はやっと一息ついた。
 寝入っているのが金本さんだけで助かった。
 もしも二人ともが寝ていたなら、この作業は随分苦労したと思うから。

 そんなことを考えていると、まーさんが金本さんを抱き枕みたいに、ぎゅっと抱き込んだ。

「……」

 いかん。

 ……見てはいけないものを見てしまった。

「……」

 怒る訳にもいかないし、なんていうかこう……やり場のない感情を胸に抱えて渋面を作っていると、店長が私の頬をつんつんしてきた。

「すーちゃん、じぇらすぃー?」
「ちがいます」
「顔に、嫉妬してますって書いてあるけど」
「ちーがーいーまーす……!」

 寝ている二人の横で、私は小声で言い張った。



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 金本さんの部屋から出て、廊下。

「じゃあ、アタシは帰るわね」

 アンタはここに残るんでしょう、と言外にほのめかす店長。
 居候をそろそろやめないといけない、と考えた事を、私はまだ店長に報告していなかった。
 いつも通り、店長の自宅へ帰るならば、私のリュックは車に置いておけばよかったのに、店長はまーさんに肩を貸す側ら、それを持ってきてくれていた。

 多分、店長は金本さんがシャムを訪れた日に、私を自宅へ還す考えだったのではないだろうか。

 奇しくも、全ての事が同日に叶ったのだ。

「はい」

 私はこくと確かに頷き、自分は今夜自宅へ戻るのだと意思表示をした。

「ありがとうございました。店長の荒療治は効きますね」

 店長はちょっと笑い、踵を返す。

「アタシはなんにもしてないわよ。おやすみ」

 ひらっと手を振って、エレベーターへ向かうその背中。
 優しくて、頼りになって、頼りにしてもいいと言ってくれた人の背中に感謝と憧れの視線を送る。

 この人と知り合えて、良かったと思う。
 この人の元で働けて、ありがたいと思う。

 本当に、出会いに感謝する。

「店長」
「んー?」

 歩きながら振り返った店長。

「大好きです」
「……。そーゆーコトは金本さんに言いなさい」
「照れてますか?」
「うるさい。さっさと寝なさい」
「はい」

 暗くてよく分からなかったけど、たぶん、店長の顔は赤くなったんじゃないかな。
 彼女がエレベータに乗り込むまで見送って、その後金本さんの部屋にリュックを取る為戻りながら、私は思い出してくすりと笑った。



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「……鍵、どうしよう」

 金本さんの家の玄関の鍵。

 悩んだ結果、玄関の鍵を閉めて、ベランダを通って自宅へ戻ることに決めた。
 金本さんの部屋のベランダの鍵を開けてから、リュックを持って玄関から出る。鍵を閉めて、今度は自分の家の玄関の鍵を開け、ベランダを通って、また金本さんの部屋にお邪魔する。
 どこに置いておこうか迷ったが、二人の鞄をローテーブルに乗せておいたから、その横に鍵を置いた。

 最後にベッドの方を見れば、かけていた布団を、まーさんが蹴り飛ばしている。

 苦笑しつつ布団をかけ直し、金本さんの寝顔を窺う。

 店長は、恋心を無理に忘れることはないんじゃないか、と言ってくれた。
 確かに、忘れようと思って、すぐ忘れられるものじゃない。そう思う。
 今日、久しぶりに会って、話をして、やっぱりすぐにときめいてしまった自分が居て……忘れられていない恋心を改めて自覚した。

 だったらいっそ、開き直ってしまおうか。

 好きな気持ちは忘れない。ずっとずっと私の中に秘めておく。私が次の恋を見つけて、金本さんへの想いが自然に落ち着くまで。
 それまではせめて、好きな人の幸せを願うくらいは、いいんじゃないかな。

 金本さんの恋人になれなくてもいいから。

 偽善と言われても、否定できない。

 でも私は、あの夜みたいに、金本さんが泣いている姿は見たくない。

 私の横恋慕で、金本さんと彼氏さんを裂いてしまえば、たぶん彼女は泣く。
 だったら私の中だけで気持ちは秘めて、彼女には伝えない。
 そして、金本さんが辛い時に……例えばベランダで慰めれたらそれで、十分だ。

 彼女の為に何かが出来たら……それだけで十分、私は嬉しいと思う。

 見下ろした先には好きな人の寝顔。
 車の中でも見たけれど、ここで見てもやっぱり絶景だ。

 長い長い沈黙の後、私は薄く唇を開き、少しだけ息を吸った。

「……愛羽さん」

 自分の名前は好きではないから愛さんと呼んで欲しいと以前言われた。
 でも、私から言わせてもらえるなら、その名前は可愛らしいあなたにぴったりだと思うし、呼ぶならば「愛」ではなく、きちんと「愛羽」と呼びたい。

 そうは思うが、彼女に面と向かっては呼べない。
 私の恋心は秘めるのだ。これからも、金本さんと呼ばせてもらう。

 けど……やっぱり。

 好きだ。

 手を伸ばして、頬に触れる。

 こんな事をすればきっと、この恋心は燻りに磨きがかかるんだろうけれども、やめられない。
 指の先で、二度だけ撫でて、あまりにも胸が痛むから手を引いた。

 今まで、切ない恋はした事があるけど。
 こんな気持ちは、生まれて初めてだ。

 なんとも表現し難い切なさと、恋しさ。
 私に初めて生まれた気持ち。

 貴女が初めてをくれた。

 どうにか言葉にして言い表そうとすれば、恋焦がれる、が一番近いと思う。

 二人とも寝ているのだから、好きだ、と口に出してもよかった。
 聞かれていないのだから構わないだろうとも思える。

 けれど、秘めておくと決めたのだ。例外はない。

 引いた手で拳を握って、私はベランダから自宅へ戻った。

 握った拳の中でも、指先には、柔らかな肌の感触が、いつまでも残り続けた。



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