第47話 武藤と目覚ましのチャイム

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 家に帰って、風呂に入って、すぐ寝るつもりだったのに、寝れなかった。
 泣けて泣けて仕方なくて、全然寝れなかった。

 あたしはいつも、いつも、道を間違える。
 まず転校して先輩に会わなきゃよかった。
 バスケ部入らなきゃよかった。
 先輩に興味持たなきゃよかった。
 近付かなきゃよかった。
 中途半端に離れなきゃよかった。
 保身に走らなきゃよかった。
 先輩に抱いてなんて言わなきゃよかった。
 好きなんて自覚しなきゃよかった。
 部活辞めなきゃよかった。
 バイトなんかしなきゃよかった。
 勉強なんかしなきゃよかった。
 彼氏と付き合わなきゃよかった。
 身体許さなきゃよかった。
 受験しなきゃよかった。
 入学しなきゃよかった。
 先輩を探さなきゃよかった。
 縛りプレイなんかしなきゃよかった。
 あの日、あの時間、ポストを見に行かなきゃよかった。
 下手に正義感持たなきゃよかった。
 一人暮らしなんかしなきゃよかった。
 通帳をいつもの場所に置いとかなきゃよかった。
 親を信用しなきゃよかった。
 焼き肉を催促しなきゃよかった。
 気持ちを隠しきればよかった。
 人に興味を持たなきゃよかった。

 全部、全部全部全部嫌になって、振り返ればあたしの足元に繋がってる通って来た道が、とても疎ましく思えた。
 初めて、色んな事をやらなければよかったと心底思った。

 泣いて泣いて泣き明かして、疲れて眠ったのは明け方だったと思う。

 バイトは夕方からだし、大学はまだ冬休み。目覚ましのアラームもセットせずに寝れるだけ寝るつもりだった。
 なのにどうしてか、眠ってるあたしを起こす音がある。

「ぅぅ」

 眉間に皺が寄るのが分かる。喉が渇いてるのも分かる。
 聞こえてきた音は……あれだ。ピンポン。ああインターホン。
 うるっせぇな……なんだ? 集金か? うちにテレビはねぇよ。
 早くどっかいけ、と念じながら枕に顔を擦り付けて、微妙に湿った感触にふれる。

 うわ……自分の涙の水分が枕から抜けきってねぇとか……どんだけ昨日泣いたんだよあたし。
 目、開かねぇし……うーわこれ夕方までに治るかなー。冷やしとくべきかぁ……?

 薄目にするつもりもないのに、勝手に薄目レベルの視界になる。瞼が腫れてて全然目が開かない。何回瞬きしてもそれは改善されないし、外では何回インターホン押してんだよってくらいにチャイムの音がうるさい。

 小さく舌打ちして体を起こし、何時か確認したくてケータイを探す。けど左を見れど、右を見れど、布団を捲れど、枕を持ち上げれど、ない。

「あれ……?」

 ヤッバ……昨日の店に忘れてきたか? と瞬間的に記憶をたどると、ああそうだ、コートのポケットに入れてそのままだったんだ。
 相変わらずうるせぇくらいに、でも規則的な間隔で鳴らされ続けるインターホンの音をBGMに、あたしはのそのそと床を這って、コートの元へ行く。
 ポケットを探れば、なんか……え、バイブ? 着信か?
 指先へ触れたケータイが細かく振動していて慌てて取り出す。誰だ誰だと小声で言いつつ画面を見たら、「引地望」の三文字がある。

 そういや昨日途中でメッセージ止まってたんだった。
 ピンポン……ピンポン……と一定のリズムで鳴らされるそれの音。
 まさか。と思いつつ電話に出れば、

『もしもし?』

 引地の声。
 探るような声はなんとなく二重に聞こえた。

 多分今、あいつドアの向こうに居る。

 ワンルームの狭い部屋。キッチンの真横に玄関があるような安いアパートのドアや壁は薄い。だから閉め切っていてもその向こうで人が喋ればなんとなくは聞こえるのだ。

「お前今外に居るな?」
『あなたの家の前にいるわ』
「メリーさんかよ」

 こっわ、と言いながら立ち上がると、引地は引地らしく『私は引地望よ?』と喋るが、その途中で耳を劈くような音に変わり、あたしは思わずケータイを耳から離した。
 たぶん、玄関に近付いたあたしと引地が近距離で通話してるせいで、高周波が――いわゆるハウリングが起きたのだ。

「うるっさ」

 耳から離してもまだキィィィィンと高い耳鳴りのような音が脳に残っている。あたしは断りもせずに電話を切るとキッチンのシンクの縁へケータイを置いて玄関の鍵を開ける。それと同時に「望? 何かあった?」と聞き慣れない声がした。

 え? と思ったけど、既にあたしの手はドアを押し開いていて、ごん、と鈍い音を立てる。

「あ?」

 何に引っ掛かってドアが開かねぇんだ? と首だけ突き出して外を覗けば、ドアは引地にぶち当たっている。

「おぉ、悪ぃ」

 まさかそんな所に立ち続けてると思わずに開けちまったけど、引地はインターホンのボタンを押しやすい位置に居続けていた。
 普通は、中から人が出てくるとか、扉が開くだろうと予測できたら一歩下がるんだろうけど、そこはやっぱ、引地らしいというかなんというか。

「痛かったわ」
「悪かったって。でもお前もあたしが来るって分かったら、今度からちょっと下がって待ってろよ。あぶねぇから」
「……今度からそうするわ」

 ぶつけた額が痛いのか手で擦る引地は、もう片手にケータイを持っている。そういやぁなんでコイツ、ここに居るんだ? うちの住所は確か前……なんかの話の時に教えたような記憶はあるけど。

「おまゥわ……!?」

 び、ビビった……!!! なんだなんだ誰だ!?

 引地に向かって、なんでお前ここに居るんだ? と聞こうとした瞬間、引地の反対側でなんかが動いたからふっと視線を動かしてみれば、馬鹿でけぇダンボール持った女が立っててビビる。そういやさっき知らねぇ声聞こえたな!? こいつか!?

「ああぁごめんなさいびっくりさせちゃって」

 ダンボ―ル女は、思いっきり眉をハの字にして謝ってきた。こんな人アパートに住んでたのか? いやいやでもさっき引地の下の名前言ってたよな?

「お母さんよ」
「お母さん!?」

 横から飛んできた説明をオウム返しにしてダンボール女を凝視すると、彼女は満面の笑顔を浮かべて「望の母です~。いつも娘がお世話になってます」と定番の挨拶を寄越してくる。
 これはマジで、引地の母親っぽい。

「ぇ、ああいやいやこちらこそ、いつもお世話になってます……」

 どうもどうもと頭を下げるが、なんで引地が母親連れてうちにカチコミかけてきたんだ?
 な、なんか悪い事でもしたか!?

「ごめんなさいねぇ急に押し掛けちゃって。もしかしてさっきまでお休みだったかしら?」

 両手が塞がってなければおほほと口元を上品に覆いそうな感じの口調で引地母が聞いてくる。あたしはスウェット姿とは言え、顔も洗ってねぇし髪も梳かしてねぇ。それで気付かれたのかと察しつつ、気まずく顔を手で擦る。

「あーえと、まぁ、はい」
「まずその目ヤニだらけの顔を洗った方がいいと思うのだけど」
「望! もう少し優しい言葉を選びなさい……!」
「ああいやお母さん、いーっすよ全然。ええと、マジで茶も出せないんですけど、中、よかったらどうぞ……?」

 ほんとに、マジで、うちには一人分の食器しかないし、人を呼べるような環境じゃない。
 でも、手で擦った顔はざらついていて引地が言うよう目ヤニだらけだ、たぶん。正確に言えばそれは目ヤニじゃなくて涙からできた塩だと思うんだが、そんなのどっちでもよくて、流石にそれを人に見せ続けるのはどうかと思うし、かと言ってこの二人を玄関の外で待たせて洗顔するのもどうかと思う。
 結果仕方なくだが、上がってもらう事にして、遠慮なく入ってきた引地と、「ごめんなさいねぇ押しかけて」と申し訳なさそうにする引地母が、一人暮らしの家へ初めて招いたお客さんだった。

「全然気にしないでください。狭いし汚いし座布団もねぇんで、もう適当に寛いでください。すんませんけど顔洗わしてもらいます」

 5畳の和室。キッチンはその一角、玄関はキッチンの脇。トイレと風呂は別だけど、廊下なんて存在せず和室から扉一つで風呂やトイレに繋がる安いアパートへあたしは住んでいる。
 収納スペースは押し入れ一つだけ。極力家具を増やさないようにして、この部屋にあるのは冷蔵庫電子レンジ炊飯器、三段ボックスと布団と小さいテーブルだけだ。ちなみに、洗濯機はベランダにある。
 それだけしか揃えてなくても結構手狭に感じる部屋に、人が3人いると圧迫感があるなぁなんて考えながら、あたしはキッチンで顔を洗う。生憎とうちには洗面台なんて便利なモノはねぇから洗顔もハミガキも食器洗うのもココ。
 あたしはついでにうがいもして、やっと人心地ついて、振り返る。

 二人は小さなテーブルを囲むように座っており、引地は母からなにやら叱られている。
 何回インターホンを鳴らしたのか。24回。そんなに鳴らさないの。電話もすぐに出られなかったらまた今度にすればいいんだから。とかなんとか。

 どうやら引地はちょっと変わった奴でも、引地母は結構まともな人なのかもしれない。なんて思いながら、あたしは二人の近くへ座った。

「すんません、お待たせしました」
「いいえとんでもないです~。ほんと、ごめんなさいね、急に」
「いえ。……えっと、それで今日は……?」
「あ! そうね、今日はね」

 んよいしょっ、と自分の横へ置いていたダンボールを重そうに持ち上げ、畳が傷つかないよう、そっとあたしの方へと置き直した引地母。

「これをお届けに来たの」
「これは?」

 ダンボールの外側に印刷されているのは、トイレットペーパーの名前だ。でも、流石にトイレットペーパーを届けに来た訳じゃないと思う。ただ単に、スーパーでもらってきたダンボールに何か他の物を詰めてるだけって感じがする。
 あたしが首を捻れば、引地母はダンボールの蓋を開いた。中から姿を見せたのは、溢れんばかりの野菜。そして米。

「え……!?」

 これくれるのか!? と流石に口には出さなかったけど瞬間的に喜ぶ。マジ神。神、神神! 天の助けとはこのことだぞ!?

「望から色々聞いていて、あなたには……武藤さんにはとっっってもお世話になってるから、ずぅぅぅっと、お返しがしたいと思っていたの」

 所々、めっちゃ溜めながら喋る引地母は、にっこにこだ。
 あたしの名前も、きっと引地から聞いたんだろう。

「お正月に帰ってくる前も時々電話で話してくれたり、帰省した時もいっっぱい話してくれてね? もう本当に! この子と仲良くしてくれる武藤さんには感謝しかしていないのよ」
「い、いやいや、あたしの方こそ、引……ぁいや、望さんには大学受験の時勉強を教えてもらったり、普段送ってもらってる野菜とかたまに分けてもらってたりしたんで、こちらこそ本当、お礼を言わなきゃいけないくらいで」

 ううん、と引地母は首を横に振った。
 それまで隣に座る我が子の頭に置いていた手をこっちに伸ばしてきたかと思えば、あたしの手の甲へそっと触れてくる。

「武藤さんのお役に立てたことは、望自身とても喜んでいてね? 母親としてもとっても嬉しいし、この子の成長の機会をくださったあなたには感謝しても、しきれないの」
「いや、……いや……」

 なんか、こう……マジで! 本っ気で心の底からそう思ってんだなってめっちゃ伝わってくる喋り方する人だなこの引地母。
 めっちゃ感謝されてる。

 そんな体験あんまり……ってか生涯で初めてくらいの経験で、上手く言葉が返せねぇ。

 言葉を戸惑わせているあたしに、引地母はまたいっそうにっこり笑ってから、触れていた手を離す。

「それに、この子にご飯、作ってくれているんでしょう? すごく美味しいんだ、って望が自慢してくるのよ。特に、一番最初に作ってくれた野菜を茹でたスープ? それが好きなんですって」
「あー。ポトフっすか」
「あ、ポトフの事だったの!?」

 きっと、引地が「野菜を茹でたスープが美味かった」とでも言ったんだろう。
 そっくりそのまま言い方を使った引地母は、料理の正体を知って驚いている。

 娘に向かって「もうちょっと料理の事にも詳しくなりなさいね」と苦笑しつつ肩を叩いた引地母は、あたしに向き直った。

「わたしも主婦だから、食事を作るのって意外と大変っていうのは分かるつもり。それと、母親として娘の食生活が心配だったのもあってね、本っっ当に、武藤さんにはお礼を言いたかったの。だから、これはほんの気持ち程度のお裾分け。でも急に押しかけてしまったのは本当に、ごめんなさいね?」
「ぁいやいやいや、マジでこんなに沢山頂けるなんてありがた過ぎてもうほんと、いつでも遊びに来てくださいって感じですありがとうございます」

 本来なら、一回か二回、形ばかりの遠慮をしなきゃいけないんだろうけど、あたしは今金欠だ。貰える食材は貰いたい。
 マジでこれはありがたいし、これだけあれば相当、食い繋いでいける。

 へこへこと頭を下げると、引地母はやんわりと首を振った。かと思えば、なんか、いきなり、手を叩いた。
 猫騙しかと思うくらいパンとするもんだからビビって固まっていると、引地母は引地に車の鍵を手渡し、「望、ちょっと車からお母さんのスマホ取ってきてくれる?」と頼み事をする。

「? ええ。分かったわ」
「車の鍵は閉めて来てね?」
「うん」

 唐突なお願いにも関わらず、引地は大人しく玄関へ向かった。
 ぱたんと安くて薄いドアが閉まる頃には、引地母が人払いの為にその頼み事をしたのだと理解出来ていて、あたしはちょっとばかり、居住まいを正した。

「ごめんなさいね、急に二人きりにしてしまって。緊張する?」

 最後に少しだけ茶目っ気を入れてきた引地母に笑って、あたしはふるっと首を横振りしておいた。

「いえ」
「よかった。あの子の前ではちょっと選べない言葉もあるからこうした事を許してね」

 だろうな。と思いながら頷くと彼女は穏やかに笑顔を作って、ちらとだけ玄関を見遣った。

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