第45話 武藤と狼の心

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「そりゃあまぁね? 恋人にあんなコト言われたら怒って当然よ」

 まんまと騙された愛羽さんはカルビを食っている。
 さっきの説明がどうもなかなかに効いたらしい。「優しさでガチギレ」というキーワードが良かったのかもしれない。

 改めて考えてみればそうだ。
 だって愛羽さんは間違いなく、先輩の為に烈火のごとく怒った。高校の頃の先輩に自分は全く関与していないのだからそこまで怒る必要もないのに、あんなにも怒った。
 それは過ぎ去った昔の先輩を庇う為だ。そして、今現在もまだあの過去を引き摺っている先輩の為でもある。

 そこに関しては……あたしは今日初めて知ったんだけど。高校卒業して、大学2年生もじきに終わろうかという時期なのに、先輩はまだあの頃の事を引き摺っているだなんて思いもしなかった。
 例えばあたしが先輩に片想いを続けていたのはなんだかんだと彼女と重なるものを無意識に求めていたり、似ている人物が彼氏になったり、実際大学で本人を度々見かけていたり、そういう多々の刺激が、2年近くの片想いを続けられた動力源になっていたのだ。

 対して先輩はというと、高校の頃仲が良かったあたしも、ストバスも、連絡手段を断ち地元から遠い大学へ行き、スパッと切り捨てていた。だから刺激となるものも少なく……ていうかきっと皆無だったろうし、高校の事なんて数ヶ月で忘れ去っているんじゃないかと思ったんだが……。

 この凄腕の恋人によると、高校の頃のあれは仕方なかったしあれはあって良かった過去だ、というのは随分と無理をした上での発言だと判明した。それを先輩本人も認めているし、どうしてそうしたかと言うと、テンチョーって人に理想で自分を騙して騙して騙し続けて完璧なメッキで己をコーティングしろ、って方法を教わったからだそうだ。

 そんなふうに、今でも無理をしないと辛い過去。それを負わせた責任の一端はあたしにあると責め、どうして救えなかったんだと怒った愛羽さん。
 それは先輩を大事に想っているから。
 先輩に辛い思いをさせたくないから。
 だから愛羽さんは「優しさでガチギレ」したし、それをあたしが理解していることで、満足しているのだろう。

 ゆっくりと順番に考えてみれば、なかなか分かり易い思考をしている女なのか? と思いつつ、程々にあたしの思う通りに動いていく現実に、軽口を叩けるくらいには気分が良くなった。
 どうして愛羽さんに惹かれたか。でっちあげた理由に、先輩を犬化させた点も、付け加えてやろう。

「しかもあの狼を手懐けてるし、すげーって」

 にやついて述べた瞬間、

「その”狼”って言うの、やめて」

 即行で彼女は口を開いた。

「お? 怒った」
「怒るわよ。止めないとまたガチギレするわよ?」

 揶揄い混じりに煽れば、チラチラと瞳の奥が燃え始める彼女。
 おお、ヤバイヤバイ。マジでキレる前に揶揄うのはやめとこう。

 大人しく白旗を振ると、ふんと鼻から息を抜いた彼女が、まるで小学校の教師みたいに聞いてきた。

 どうして先生が怒るか分かる? という質問で自分の行動・行為を顧みさせる定番の叱り文句。あたしはコレが嫌いだった。
 なんで最初から「あなたの○○がいけなかったの。それは悪い事なの。だから先生怒ってるのよ」と言わないのか。
 なんでワンクッション置くのか。回りくどい事をするのか。小学生なんて自分の行動・行為すべて悪いと思わずやってんだよ。やりたいと思うからやってんのに無駄に振り返りの時間取られても意味も分からず圧に負けてごめんなさいって謝るだけに決まってんだろ。

 そんな幼い頃からの不満の端を、愛羽さんが掠めつつ喋るもんだからあたしは顎をあげた。

「とっかえひっかえ女抱いてた時代の先輩が嫌なんっしょ? 付き合ってる彼女がチャラい頃とかそりゃ誰だってイヤでしょうけど、でもしゃーないっしょ。実際ヤリまくってたんは事実っスもん」

 恋人がヤリマンだったなんてそりゃ誰しもイヤだろうよ。処女厨ってヤツも居るくらいなんだから経験人数なんて少なければ少ないほどいいんだろうに。
 だが過去も事実は事実と言いきってやったあたしに、また即座に言い返してきた愛羽さんは長い溜め息を吐いた。

 ちがう?
 違うって……。

「なにが、違うんスか……?」

 どうも何か、軽い雰囲気ではない。彼女の溜め息が、妙に重たい。
 この女は意味もなくそんな空気は纏わない。

 理由がないと、この優秀な先輩の恋人は、そこに固執しない気がする。

「絢子ちゃん。あなたにとって雀ちゃんと過ごした高校生時代は楽しいもので、その思い出が今でも濃いのかもしれない。わたしが彼女から高校生の頃の話を聞かせてもらったとき、あなたとのバスケは楽しかったし、ストリートバスケに連れて行ってもらえたことも、良かったと言っていたわ」

 なんとなく居住まいを正しつつ耳を傾けた愛羽さんのセリフには良い情報しかない。
 だったらなんで? と疑問を抱くあたしへ、続けて寄越される言葉。それに、だんだんと眉が顰む。

「捨てたと本人は言ってるけど彼女の中でその思い出は残っているし、当時、とても心の支えになっていた。でもね?」
「でも……?」
「狼は、違うの。当時の雀ちゃんが苦しさの中で唯一と言っても過言でないくらいに、無二の方法。自分の存在を許す為の、仕方なく選んだ手段なの。だから狼には、良くない思い出が多くて、記憶を起こすだけでも、彼女にとっては辛いのよ」

 いやいやいやいやと被せ気味に割り込んで、顔の前で何回も手を振った。
 愛羽さん愛羽さん。え? あんた理解者だったんじゃなかったの? 先輩の無理まで見抜く鷹の眼持ってる凄腕の恋人なんじゃなかったの?
 イヤイヤイヤんな訳ないじゃん。辛い? 仕方なかった? んーな訳ないじゃん。

「だって”された”じゃないんスよ? 抱いてるんですって! 先輩の足の速さならその辺りの男には全っ然勝つし、なんだったら一人きりになんなきゃいい。なのに人気のない所行って、誰かが来るの待って、ヤる。先輩は何かで脅された訳じゃないし、先輩のとこ行けば抱いてもらえた。男子が行ってもボッコボコにして断ってたくらいだから、断ろうと思えば断れたんスよ? それをしなくて、自分から抱いて、仕方ない手段だった? そりゃちょっとばっかし、おかしくないっスか愛羽さん」

 あの頃、狼さん旋風が起きていた。
 先輩は顔がいい。運動もできる。成績は……よく知らないけど赤点取ったとかは聞かなかったし補修も受けてなかったから、バカではない程度の学力はある。身長も高い。これだけ揃えば十分な魅力だが、あの人これまた性格も悪くないんだ。言い表すなら、優しい人。あんまグイグイ行く感じの性格じゃないから打ち解けるまでは固いし素っ気なく感じるかもしんねぇけど、ちゃんと喋るようになればなんだかんだ優しい。
 その上、テクニシャンときた狼さんはものすげぇ人気だったんだ。

 男とヤれば妊娠の心配が必ず付いて回る。けど先輩じゃあどう逆立ちしても子作りなんて無理。だけども、行為は出来るって訳だ。
 女にとってはもう最高のアトラクションでしかない。だって、世の中じゃあデリヘルっていう仕事がきちっと確立されてる。そのデリヘルがやるくらいの内容を、先輩はタダでしてくれる訳だから。

 あたしが知ってる奴の中には、「女同士でとかありえない」と全力否定してるヤツがいた。けど、友達にそそのかされて先輩のとこ連れてかれて抱かれた後「明日も会いたい」とか言い始めてたし。
 人気のアトラクションは取り合い状態で、通算4回しか先輩に抱いてもらえなくて悲しんでたアイツは、まんまとその道へハマッて今女と付き合ってるらしいけど……まぁそういう感じで先輩はノンケもレズ堕ちさせられるくらいの人だったし、それを楽しんでたからこそ、あれだけとっかえひっかえしてたんだろ?

 それを、自分の存在を許す為の、仕方なく選んだ手段? 思い出すと辛い?

 イヤイヤイヤイヤイヤイヤ、と連続で手も振りたくなるってもんだぞ。愛羽さん。どんな感じで、先輩から当時の情報を教えられたのか知らないけど、それは考えを改めたほうがいい。
 なんなら今から、詳らかにしてやろうか? と言いそうになるあたしに、彼女は問い掛けてきた。

「どうして、絢子ちゃんは、抱かれなかったんだと思う?」
「そりゃその、大事な後輩だから、って言われましたけど?」

 お前はそういうの大事にしろっつって、あたしは一人きりの教室に残されたんだよなぁ。
 あれで、結構気まずい感じになって、あたしは先輩から少し距離置いたんだっけ。

「雀が好きで色んな子を抱いていたなら、もれなくあなたも抱くはずとは思わない?」
「そりゃ思いますよ! だからあン時ショックでぇ、ぇー……ぁ?」

 なんで今呼び捨てに?
 愛羽さんガチギレした時は先輩を呼び捨てにしてたけど、今キレてなくね?

「え?」

 急な変化を目の当たりにして、あたしはスッと背筋が冷えた。
 その流れで頭の後ろから冷却されていく脳みそに、「大事だから、しない。大事にしたいから、触れない。いま自分は自分を大事にしてないから、そんな自分が触れたら、後輩を大事に扱えないから」と、ものすげぇ重要なヒントをぶち込んでくるスナイパー。

 たまたま見ていた肉の乗ってない皿の端から視線が動かせない。見えない力に縛られたみたいに身動ぎを禁じられながらも、脳みそは動く動く。ぎゅんぎゅん回った脳みそは、妙なくらいに冷静で、「生きる為に仕方なく抱いていた。したくなくてもしていた。それが良くない行為と理解していた。それなのに、止められなかった。誰かに脅されてでもなく自らの意思で抱き続ける行為をやめられなかった。駄目と分かっていながら。嫌と思っていながら」休憩の暇もなく撃ち込んできた重要なヒントをバラして、舐めて、理解する。

 おい。

 マジか。

 こういう時の思考回路って、秒速何メートルなんだろうな。台風の暴風域より、速いんじゃねぇの?

「せめて、大事な後輩は大事にしたくて断った。自分は守れなくても、あなたは守りたくて、そうしたの」

 お前はそういうの大事にしろよ、って、あたしは先輩に頭を撫でられたんだ。
 ”お前は”って、そういう意味だった訳……?

 先輩、あんた……。あんたは、さ……もしかして、あたしが彼氏と最後にヤッた時と、あの2回目の時みたいな気持ちだったの、か……?

 駄目だと気付いて、イヤだと分かって、それでも自分が重ねてきた行動の結果だから受け入れざるを得なくて。
 相手にだって申し訳なくて、でもごめんって言えばきっと傷付けると簡単に想像できて何も言えなくて。
 でもどっかではキモチイイって思ってて、それが正しい快感じゃなくて、自分が気持ちよくなっちゃいけないと思うのに、やっぱどっかではキモチイイをもらってて。

 甘えと縋りと後悔と申し訳なさと快感がごっちゃごちゃになるあんな行為は、きっと一生忘れないだろうなって思ったし、あたしは今でもそう思ってる。
 あの時の記憶は全然薄れなくて、新しく出会った誰かと深い関係になって、交際って形を取るのがイヤで、あたしはいろいろ……避けてきてる現状だ。

 じわりじわりと目の端が潤んできた。

 ああもう、最近マジで涙腺緩すぎ! 今は泣いてるどころじゃねぇってば!

 もし。もし今の重要なヒントがマジで本当に重要で、この人が、敏腕の恋人らしく裏に何かを含ませているんだとしたら。
 日常的に使わない単語、セリフ、言い回し。

 それって……。

「自分の存在を許すとか……生きる為とか……って、先輩は……」

 あたしはあの計2ラウンドの一晩こっきりだったけど。
 先輩が高校の頃、狼さん旋風は…………何ヶ月続いたんだっけ…………?
 何人と?
 何回したんだ……?

「わたしは雀から全てを聞かせてもらった後、こう言ったの」

 呆然と見つめる先で、愛羽さんは強く炎を燃やした瞳をあたしに見せる。

「生きててくれて、ありがとう、って」

 じわりと彼女の炎が滲むみたいに水気を増したのは、……きっと、怒り過ぎたからじゃない。
 当時を想ってか、この話を聞かせてもらった時を想ってか。そのどちらでも、先輩を想って、この人は泣きそうになっているんだと思う。

「だから、二度と、雀を狼って呼ばないで」

 卒業式が終わって、同学年の北添センパイでも捕まえられなかったくらい即行で帰った先輩が、死にたくなる想いをずっと堪えてただなんて、知らなかった。
 そりゃあ。そんなふうに思ってたなら、友達との写真も必要ないし、一秒でも早く学校から去りたいだろうし、少しでも遠くの大学に行きたいだろうし、連絡手段も断つに決まってる。
 再会したあたしに、会いたいなんて思ってなかったと言い放つのも当然だし、蹴ったり、あんだけ嫌そうな顔をして当然だ。

 もちろん、その当時を彷彿とさせる”狼”という呼び方に対して愛羽さんが怒るのも当然だし、二度と口にするなと禁じてくるのも、至極当然。

 当然でないことを探すならば、先輩の態度だ。
 あたしなんかにでかい方の肉を譲ってくれたり、守ってあたりまえだと言ってくれたり。まともに言葉を交わして会話をしてくれているだけで奇跡に近い。
 普通なら、当時関わりを持ってたあたしに対して、そう、そうだ。愛羽さんみたいに、なんで助けてくれなかった、救ってくれなかったんだと声を荒げていいくらいだ。

 なのにそれもせずに、……あんたどんだけいい人なんだよと思う。

 愛羽さんがあれだけ怒った理由も、狼の心も、教えられたあたしは……喋れなかった。

 口は。唇は動くし開くんだけど、何を言えばいいのか、言っても許されるのか分からなくて。
 一旦閉口するけど、でも、黙ってるんじゃなくて何かを言いたくて、でも何も紡げなくて。

 愛羽さんはあたしの様子をずっと窺ってて、それ以上の何かを寄越しては来ない。
 息苦しいくらい重たいと感じる空気を辛うじて吸い込んだ瞬間だった、ドアが開いたのは。

「オイ」

 マジで心臓が口から飛び出たと思ったくらいにビビったし、全力ビンタでもされたくらいの勢いでドアの方を振り向く。と、そこには先輩が首だけ部屋に突っ込む形で立っていて、めっちゃ睨んでくる。

「トイレ逆じゃねーか。ウソ教えやがって」
「すん、ません……」
「バカヤロウ」

 カラッカラの声で謝ったあたしの心臓は尋常じゃないスピードで脈打ってる。
 大丈夫、大丈夫、ドクドクいってる。口から心臓は出てねぇよ。胸にあるある大丈夫。

 息をついて、胸を撫でて。

 んんっ、と咳払いをして先輩への文句を呟く。マジでドアの向こうで会話盗み聞きしてたくらいのタイミングで入ってくるの勘弁して欲しい。
 ホンっトにびっくりした。マジで死ぬかと思った。

 でも、今のでなんか、金縛りみたいになってた状態からは、解放された気がする。

 再び廊下へ消えていった先輩はきっと、これからトイレに行くんだろう。
 それならもうあんまり時間は残されていない。

 この人には、もう少し喋りたいことがあるんだ。




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