第27話 武藤と空腹

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「……やばい……。これは現代社会において餓死が発生するぞ……」

 あたしは飲み飽きた水が入ったコップを片手に、低く唸った。

 腹減った。腹減った腹減った腹減った腹減った腹減ったはらへった!!!!!!!
 うあーーーーーーーーーーーはらへった!!!!!!!

 それもこれも! あいつらのせいだ!

 握っていたコップの底をダンと打ち付けて、揺れて零れた水を手の甲に浴びる。そんな些細な自業自得でさえもイライラしてくるのは、あいつら……あたしを生んだ両親のせいだと怒りを抱いた。

 お前らの好きで産んだんだろ!? その子供に集んじゃねーよ!!
 つか何!? ここまで育てたのはあれか! 集金するため! ATMにするために育てたのか!!

「クッソ……!!」

 怒りが収まらず、あたしはまたコップを打ち付けた。
 水はバシャバシャ零れて、あたしの手や小さなテーブルを濡らしてるけど知ったことか、そのうち乾くから大丈夫だ。

 それよりどうにもならないこの怒り、どうにかして欲しい。

「人ん家勝手に入って通帳持ち出して金出すとか普通に泥棒だろうが!!」

 どう考えてもそうとしか思えない。
 ていうかもうそれでしかない。

 意味が分からん。マジで。もう、なんであんな親の元に生まれたのか恨む。恨みしかない。
 恨みと怒りを越えて、涙が出てきたけどどうしようもない。

 なんならあたしは、金が減った事実に気が付きたくなかった。

 財布の中に現金が少ないし、確か電子マネーも残高が少なかったしチャージしておこうと思ったあたしはコンビニのATMに銀行のカードを挿し込んだ。
 そしたら残高が、ほぼ空だった。
 マジで瞬間的に頭が真っ白になったし、チビるかと思うくらいにビビった。

 即行で家に帰って、普段使わない通帳を引っぱりだして残高を見て、また死ぬほどビビる。12月21日。生活費と学費の為に貯金していたバイト代のほぼすべてが引き出されていた。
 あの時ほど、「待て」と自分に言ったことはなかった。数百回は「待て」と口に出して言い、冷や汗を全身にかき、気がおかしくなりそうになりながら、どうやってだれがいつと狼狽えまくった頭で考えた。

 泥棒なら警察だとなんとか繋げた思考も、警察ってどうやって呼ぶんだっけと考えるくらいに、あの時のあたしはパニクッていた。
 後から考えれば110番も分からないなんて馬鹿だなと思うけれど、人間マジでビビッてパニックになったら、頭の中は不思議なくらいに真っ白だし、周りの物音が聞こえないくらいだし、自分が今さっきどんな行動をしていたのかも分からないくらいに、異常状態に陥ると初めて知った。

 そんな初体験大パニックは、足の小指を家具におもいっきりぶつけた所で、一旦終了した。
 痛かった。死ぬほど痛かった。
 マジで小指の骨折れたと思ったし、爪は剥げたと思った。
 でも頑丈なあたしの体は、爪の内側? 下側? の内出血だけで済んだ。こんなの放っておけば治るだろうし病院代がかからなくてマジでよかったと思った。

 プラスして、パニックが収まった。
 痛かったのは嫌だったけれど、さっきよりマシに頭が使えるようになったのは良かった。

 落ち着いて現状を整理してみれば、この銀行口座の残高が減ったのは12月21日。それまではバイト代もその前日振り込まれてるし、その前には家賃も水道光熱費も引かれてて、口座自体は正常に機能してる。
 加えて、わざわざ引き出された事が記帳してあるってことは、犯人は、この通帳を持って銀行に行って、金を下ろして、この家に通帳を戻した人だ。
 ただの泥棒がそんな事をするか?
 暗証番号はどうやって知った?

 イヤ待て。暗証番号を知らなくても金を出せる方法がある。
 窓口だ。

 通帳と印鑑があれば、出来る。
 しかもこの通帳を作ったのは、あたしの母親だ。

 高校の時、バイトを始める前だ。給料を振り込むために銀行口座を作ってもらった。銀行は平日の昼間にしか開いてないから頼んで作ってもらったんだ。その時使った印鑑は…………実家の、母親の鞄の中にある。

 この通帳をもらったとき、印鑑は受け取らなかった。渡されたのは通帳だけ。それに疑問は抱かなかったあたしが馬鹿だった。
 銀行の窓口であれば、支払い用紙に日付、口座番号、口座の名義、引き出し金額を記入し、通帳の届け印を押し、通帳を持っていけば金は下ろせる。

 その上、大学進学の際、借りたこのアパートの鍵。ひとつは自分のキーケースにある。もう一つのスペアキーは……何かあった時の為に実家に置いておけと言われたままに、何も疑問に思わず、実家へ預けてあるままだ。

 ここまで思考が辿り着いたあたしは、自分の息が異様に熱いことに気付いた。
 これはあれだ。北添センパイにキレた時と同じ感じ。目玉がギラギラして、熱くて、熱くて、火が出そうな感じ。

 どっかに居る、冷静な自分が自分を観察してる。
 そんな訳わからん状態でもあたしは自分の親に電話を掛けた。
 4コールで出た親は、あたしの母だ。
 一人暮らしをして実家に滅多に帰らないあたしには、久しぶりに耳にする声。その人に、最近あたしの家へ来たかと問えば、すぐにこの事態の顛末は解明された。

 母親は来たらしい。父親の運転する車に乗って、12月21日。
 あたしの暮らす家に来て、あたしが居ない間にスペアキーで入って、思ったより綺麗にしているから驚いたらしい。それに、きちっと野菜を買って丁寧に冷凍保存や作り置きをしているのも感心したそうだ。だけど物を仕舞っておく場所は大体見当はついたし、あんたらしく三段ボックスの一番下に入れてあった通帳はすぐに見つかったと女の声は笑っていた。
 大学に入学して9ヶ月で思った以上に貯めていて偉い偉いと褒めた女は、聞くまでもなく、預かっておいたからとあたしに言った。

『あんたがゴールデンウィークもお盆も帰ってこなかったからどうせ正月も帰ってこないだろうと思ってわざわざそっちまでお父さんに運転してもらってね、道が混んでてお父さんちょっと機嫌悪くなったし大変だったのよ。でも帰りにはそんな怒ってなかったし、あんたも時々帰ってきて顔見せなさいね』
「……その金、必要なんだよ。大学で、使うんだ。返して」
『奨学金取ったんだからいらないでしょう? 母さん預かっておくから』
「預かったんなら返せよッ!!!」

 目の端にじわりと増した水気を払うみたいに、あたしは怒鳴った。
 電話の向こうの女に。頼むから返してくれと。

 今まで、じいちゃんやばあちゃん、親戚にもらったお年玉は全部預かられた。
 大学受験の時、受験料が必要だって話をしたときも、「うちにはお金がない」って返事しかなかった。

 預かったというのは、体のいい言葉だ。

 高校の時、あたしの成績変化を長い間追いかけていた地域雑誌。実は、その編集部から謝礼は出ていたそうだ。
 けど、それは家庭教師として活躍してくれた引地に一銭も行ってないし、あたしの手にも渡っていない。それどころか、謝礼の存在自体少し前までは知らなかった。
 用事があって母親に連絡した時、雑誌の仕事はまたやっていないのかと聞かれ、その時初めてあたしは謝礼の存在を嗅ぎ付けたのだ。
 編集部と金のやり取りがあったからこそ、高校の時雑誌で特集を長期組まれる話がすんなり通ったのだ。母が、金目当てに快諾したから。

 こんな事、引地には言えなくて黙ったままだ。
 あいつはあの頃からあたしに現金をせびったりはしなかった。ただある野菜や買ってきた肉で飯を作る。その交換条件でいいと言っていた。そんな彼女にこんな気分が悪くなる話はしたくないし、恥ずかしくて出来なかった。

『なにいきなり大きい声出してるの。子供があんな大金持ってたら危ないから母さん預かってるだけよ』
「だから!! 要るから返してって言ってんだ!!」
『冷蔵庫には食べる物あったし、5万もあれば次のバイト代が入るまで足りるでしょう?』
「足りねぇよ! 家賃だって水道光熱費だって引き落としあるし春にはまたどうせ教科書も新しく買わなきゃいけない! 奨学金ったって卒業してから月々返済していくんだからそれは貯めとかなきゃいけない金なんだ!! 返せ!!」
『いけません。子供が大金持ちすぎるとロクなことに使わないで遊びにばっかりどうせ使うんだから。母さん預かるから』
「あたしが今言った使い道のどこがロクでもねぇんだよ!! どれも遊びじゃない! 必要な使い方だ!!」
『ダメダメ子供はお金の大切さが分かってないんだから。本当に足りないときは言いなさい、ちゃんと用意してあげる。そうでないから今は預かってるの』
「用意……ッ」

 用意した試しがないだろうが!! と怒鳴ろうとしたけど、高校までの学費は払ってもらった。服だって買ってもらったし、家で飯だって食わせてもらってた。それらはどう考えても用意してもらった金で賄われたあたしの生活であり与えてもらった教育だ。

 喉でつっかえた怒気は言葉にならず、声にならない声として漏れたが、母親である女は気に留めてなんかくれなかった。
 分かったらちゃんと遊んだりせずにバイトに励む事。たまには帰ってくる事。それらを注意して、あっさり電話を切った。

「……ックソ!!!」

 あたしは布団と枕を丸めてめちゃくちゃに殴った。
 薄い壁のアパートは、そんな音も振動も簡単に響いたのか、壁ドンや床ドンを食らって大人しくせざるを得なかった。

 さっきまで殴っていた布団と枕にあたしは縋った。
 今すぐにでも金を稼がなきゃいけない状況に陥ったくせに今日がバイトの無い日で心底良かったと思いながら、泣き明かして、返ってこないであろう100万円近くの金が自分の口座から消えた怒りと喪失感とこの先の人生への不安に、トイレで嘔吐を繰り返した。

 泣いたり、吐いたりで体力を使ったせいでそのままトイレで気絶するように寝たあたしは見事に風邪を引き、それでも大学やバイトを休む事ができなくてなんとか冬休みを迎えた。そのころには自宅の冷蔵庫も空で、これはもう引地に野菜を恵んでもらうしかないと彼女に連絡したのが12月26日だった。

「なぁ今日行っていいか?」
『帰省をしたから、私はいないの。家に入りたければ入っても構わないけれど』

 絶望を感じた電話口の声。
 だけど、しばらく会ってなかったせいか?
 内容的には絶望したけど引地の声は思った以上に、なぜか、聞けてよかったと思ったし、なぜか、ほっとした。

 そんなこんなでどうにか使う金は最小限に抑えながら年を越して、4日。
 もう限界だ。
 死ぬ。

 あたしはこんなふうに強請るつもりはなかった。
 向こうから連絡が来るのを待つ予定だった。

 でも、もう無理。
 腹減った。

 頼む。

 マジ頼む先輩。

「助けてください」

 言いながら打ち込んだ言葉を送信して、濡れたテーブルに突っ伏す。
 空腹を紛らわせる為に水も飲んだ、氷も食った、近所のパン屋で安売りしてるパンの耳でここまでなんとか食いつないできた。
 でももう限界。
 腹減った。
 たのむ。

 頼むから。
 焼き肉、食わせてください。愛羽さん。



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