第24話 武藤と燃料追加

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 涙が枯れるという言葉を何かの映画で聞いた事があった。
 それが多分、今だと思う。

「……目が開かねぇ……」

 弱々しく零したあたしの頭をずっと撫でていた手が、動きを止めた。
 手の甲へ触れていた引地の手が離れて、今度は肩へ触れてきて、そっと押してくる。前屈みになっているあたしを起こして、顔を覗き込みたいんだろう。……ケド。

 あたしは体を力ませて抵抗した。

「顔洗わせてくれ」

 せめて、だ。
 もう引地の前で泣いたのは2回目だし、1回目より断然派手に泣いた。けどさすがに、涙と鼻水でぐっちゃぐちゃになった直後の顔をこんな近くで見られるのはいやだった。

「目が開かないのに洗面所まで行ける?」
「行ける」

 確かに目が開かないと言ったけど、完全に開かない訳じゃないしな。と心の中で返しながらも、説明をするのが億劫で、立ち上がる。
 ……あぁぁ頭いてぇ。泣き過ぎて頭痛だ。

 ノートの山々を避けて進み、廊下へ出て脱衣場へ。そこにある小さな洗面台の鏡に自身を映して真っ赤な目の周りと鼻に溜め息を吐く。今現在腫れぼったいんだし、明日も絶対腫れるよなぁ……最悪。
 蛇口を捻り、真冬の冷たい水を両手で掬って、塩水を浴びまくった頬のごわつきを流し、他もざっと洗って流す。
 タオルで顔を拭い、ティッシュで鼻水をかみ、ようやく人心地をつく。

 まぁまだ、目はもちろん腫れぼったいが、鼻から空気を吸えるようになっただけでも劇的な改善だ。

 いつまでもここに居ても仕方ないし寒し、あたしはリビングに戻った。ら、そこに居たのはフローリングを拭く引地。

「あ……悪ぃ……」

 なんで床を拭いているかって、そりゃああたしの涙と鼻水だ。
 自分の胡坐もびしょぬれで服が肌に貼り付いて気持ち悪い感じがあるくらいだから、床だってもれなく濡らして汚したのだろう。

「気にしないで」

 ゴミ箱へ入れたティッシュがずぽ、と音を立てる。そのテッシュらしからぬ重みのある音にバツの悪さは膨らむ一方だが……もう掃除は終わったようで、彼女は座布団に座り直した。

 なんとも居心地が良くないけど、その隣へ戻らない訳にもいかない。
 静かに深呼吸を一度だけしたあたしは、愛用の座布団に腰を下ろした。

「……悪かったな、その、いろいろ……迷惑かけて」
「どういうこと?」

 ……。
 こういう時、マジでやり辛い。
 察してくれと思うけど、それを出来ないのが引地だとあたしは誰よりもよくよく知っている。

「ポスト見て帰ってきてから、あー……と、心配かけたり、運ばせたり、難しい話したり、いきなり泣いたり、慰めさせたり、縋ったり、掃除させたり、……っていういろいろ、だ」

 指折り数えて挙げれば挙げる程いたたまれなくなる内容。まともに、彼女の顔が見れない。
 あたしは座卓に両肘を着いて、がしがしと頭のサイドを掻く。

「そういや言ってなかったけど、ポストには何も届いてなかった」

 居心地の悪さに他の話題を提供すれば、引地は「そう。ありがとう」と告げたきり、しばらく何も言わず、かと言ってノートにシャーペンを走らせることもせず、ただ黙っていた。

 ……気まずい……。
 つかもう……帰るか。
 この時間だし、人に顔見られる心配もないだろうし、謝るのは謝ったし……ぁいやでも同性愛とかバイについてこいつがちゃんと理解できたのかは……まだなんか宙に浮かんだまま、……か。

 そのあたりちゃんとしてから帰らねぇと……。
 例えばカギだけ返しに来るっつーのもまたアレだしな……。

 よくない方にばっか考えが行くのは完全に先輩のせいだ。
 あの人が今日彼女の迎えになんか行かなきゃ出会う事もなかったはずなのにクソが。

「ねぇ」

 お門違いな八つ当たりを脳内で繰り広げていると、引地が不意に、呼んできた。
 彼女はあたしの方を向いているような気配がするけど……生憎とこちらはそうもいかない。顔を洗ったからと言って即座に見せても構わなくなる顔面ではない。できれば隠したいと思うし、何より気まずさとバツの悪さが強過ぎて彼女をまともに見れないのだ。

「なんだ」

 変えない体勢のまま応じれば、彼女はあたしにも増して突然言い始めた。

「あなたの好きな先輩の彼女は、相応しいのかしら?」
「……は……?」

 思わず、視線が動く。

「だから、あなたの先輩の彼女は恋人として相応しいか聞いてるの」
「はあ?」

 いや、なんか、噛み砕いてもう一回言ってもらったけど、分かんねぇぞ……?
 泣いた顔見られたくないっていうのも気まずさもバツの悪さも忘れて、つい引地をまじまじ見ちまうくらいには、コイツの言ってることが分からん。

 だけど当の引地は、冗談を言っている顔じゃない。
 至って真面目。超絶普通に、疑問を抱いた事を質問しているだけなのだ。

「……」

 だからこそあたしは悩んだ。
 どう返答すべきか。
 大学の友達が「相応しい」だなんて言葉を使ってこようものなら、笑い飛ばしてスルーするけど、コイツにはそんな事をしちゃいけない。

 喉の奥で唸って「相応しい」について考え、慣れない単語の用いるべき時をよくよく吟味してからあたしは口を開く。

「相応しいってのは、先輩が決めるもんだと思う」
「そうかしら?」
「?」

 基本的に引地はあたしを遮ってまで喋ることは少ない。けど、何故かこの時は食い気味にまでなって、彼女はこちらに言い返してきた。

「私はあなたを見てきて、あなたこそその先輩の傍に居るべき人間と思ったの。だって、高校の時からずっと傍に居て、絶望的だった受験を成功させてまで追いかけたのよ? その努力は報われるべきよ」
「いやでもそれとこれとは別の話だ」

 先輩が誰と付き合うのか。
 あたしが追いかける為にどれほどの努力を重ねたのか。
 その両者は同じ土俵にあげるべき内容ではない。

「あたしだってさっきはそりゃその……泣いたけど。でも、そんな自分にびっくりしてんだぜ?」
「どうして?」
「先輩が高校卒業してからもうほとんど2年だぞ? その間あたしだって彼氏居た時もあったし、友達だって増えたし。先輩に縋ってばっかじゃなかったはずだし、実際好きって自覚した頃より断然気持ちは薄れてたんだ。学食で見掛けたときだって、例えばバレンタインとかめっちゃ貰ってるところも見た。それ見てもショックとかじゃなくてへーやっぱモテるんだなって思ったくらいだった。そんなもんだったのに、なんか今日はあんなんなっちまった……。なんか、こう、ショックとかじゃなくて! なんだ、その、調子悪かっただけなんだよ」

 あたしはこの時考えるよりも先に、口を動かしていたと思う。
 きっと、じっくり考えれば何か掴めただろうに。
 気持ちの整理と把握が出来ただろうに。
 また泣きたくなくて、誤魔化すように、ぼかすように、適当に喋った。

 だって、先輩と連絡取れなくなって時間がかなり経ってたのも、彼氏が居たのも、大学でモテる先輩を眺めてたのも本当だ。
 自分がこんなに泣く事態になって驚いたのもホント。

 何がどうだったかなんて細かい事を今は考えたくないし、結果は出てんだし、それについて考えてまた落ち込むのも泣くのも御免だ。
 だったらもう今ある現実を受け止めて、自分の中にある気持ちなんかジャーっと流してしまえばいい。
 そう。そうだよ。そういう事なんだよ。

 まるで散らかった部屋の物を押し入れに全部押し込んで戸を閉めて。
 綺麗になったぞと部屋を見回す時みたいに、あたしは自分に言い聞かせていた。

 いきなり会って驚いただけ。
 先輩に恋人が居てびっくりしただけ。
 なんだったらそうだ、そう。そうそう。場の流れで連絡先教えてもらえてうれしかっただけ。
 そういう事さ。

「ねぇ」
「ん?」

 応じる一瞬、顔が引き攣った。
 こいつは――先輩の眼と似た眼のこの人は、ものごとを明らかに、確かにしていくのがとても上手な人だと知っていたから。

 ドキリとした内心をひた隠しに、押し入れに捻じ込んで戸を閉めるあたしに、彼女は言った。

「先輩が誑かされている可能性はないの?」



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