第20話 武藤と先を歩く人

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 先輩は何度も見かけた。

 意外なもので、1度会う……てか、見掛けるまではマジでこの大学に通ってんのか……? と不安が過るくらいに見つからなかった先輩は、4月下旬以降、かなりの確率で見掛けるようになった。

 週に1回はほぼ、必ず食堂で見掛ける。

 でも、あたしには全っ然、気付かねぇ。
 食堂の通路ですれ違うこともあったし、距離的には、少し体を傾ければ肩がぶつかるくらいに至近距離まで詰めたものの、先輩はあたしに目もくれずスタスタと歩いて行った。

 気付け気付けと心の中で何度念じてもこっちを見もしない。
 心の準備をこっちが整えていなくても、向こうが勝手に気付いて話し掛けてくればきっとなんとかなるだろと踏んで、わざと近くの席へ座って食事をしたこともある。

 あたしはあれからずっと金髪を貫いていて、他の生徒より目立つ方だと思うのに、先輩はすでに気付いててわざと何も言わないのかと疑うくらい、無反応というか無視というか、アウトオブ眼中、って感じだった。

 自分から声を掛ける機会なんて、何度もあった。

 狼の血が少しは残っているのか、先輩は友達と常に一緒という訳ではなく時には一人で昼食をとっている姿も見せていた。
 だからその時は、チャンスか……!? と思うけれど……いざ彼女の傍へ、となると……どうしてだか、遠くの席を選んでしまう自分がいる。

 そんな時、必ずと言っていい程頭に浮かんでくるのは、高2の終わりに見たエラーメールや、通じなかった電話のこと。
 あれがもしかして、……あたしに対するだけの拒絶だったら……?

 声を掛けて、昔のように表情を緩めてくれなかったら……。
 欠片も笑みを、見せてもらえなかったら……。

 そんな不吉な想像が拭えきれないあたしは、馬鹿みたいに中距離から、先輩を眺めるしかできない日々を送っていた。

 一方引地は、例のサイン会からしばらく経ったある日から、絵を描くようになっている。
 その元気を取り戻したのはよかったと思うけれど、あのとき、なんの力にもなってやれなかったのはマジで……悪かったと思う。

 受験の時の恩返しができると一瞬張り切ったものの、同じ問題を抱える身としてはアドバイスも何も浮かばず、話を聞いてやることくらいしかできなかった無能だ。

 その時の事を思い出しながら、黙々と絵を描く引地を、あたしは褒めた。
 誰からも何も手助けをもらわず、自分の力だけで絵を描く元気を取り戻したのはすげぇ。えらい。しみじみと言えば、彼女は目の端でこちらを一瞥して「あなたは傍に居て、心配してくれて、話を聞いてくれたわ」と言う。

「ンなの誰でも出来るさ。あんたがあたしに勉強を教えてくれた時みたいに、最後発破をかけてくれた時みたいに、自分でしかできない事をしてやりたかったのに結局何も出来なかった。今だって、大学で先輩を見つけたらストーカーみたいな事ばっかして……そんな自分が嫌になるぜマジで……」

 はぁ~~~あ。
 深く溜め息を座卓に吐き付けて、ぐったりと突っ伏しかけた瞬間。

「なぜ解決しないの?」

 問われた。

 ピタリと動きを止めたあたしに、引地は重ねて訊く。

「問題が把握できていて、どうして、解決にむけてあなたは動き出さないの?」
「どうしてって……そりゃあ……」

 声を掛けて、拒絶されるのが……恐いから。
 自分は大学合格の為に頑張って来た。学費の為に今もバイトを頑張ってる。ではそもそもなぜこの大学に来たかというと……先輩とまた話がしたいから。
 彼女に告白をするかどうか。それは一旦置いといて。まずは再び話が出来るようにならないと告白どころではない。
 だから、喋り掛ける。そこだ。そこなのだが、拒絶が恐くて動けない。

 口籠るあたしの隣で、引地はシャーペンを手の中でくるりと回す。

「あなたと私では対象も、対象との関係も随分違うからこれから言うことは参考にはならないかもしれないけれど」

 引地は前置きをすると、再び絵を描きながら聞かせてくれた。

「サイン会で何も出来なかった原因は何か、考えたの。出せた答えは、足りないからだった。先生に握手してくださいとお願いするんだと決めていなかった。そういう台詞を喋るんだと予行演習もしていなかった。差し入れも何を持っていけばいいか分からないならあなたに相談すればよかった。もしくは何か、なんでもいいから買って持っていけばよかった。自分が絵を描いたノートを持っていけばよかった。先生のアシスタントにして欲しいんですと言うと決めていなかった。予行演習もしていなかった。自分をアシスタントにしてくれたらどんな仕事を遂行できるか上手く説明できる具体例が私にはなかった。それら全部が足りてなかった。だから何もできずに新刊を握り締めて、サインを貰って帰ってくるだけになった」

 未だに悔いているんだと分かる声を聞かせながら、引地はあたしにノートを見せてくれた。
 そこにあったのは、絵だ。
 絵だけど、漫画だ。

 今まで引地が描いていたのは、例えて言うなら1コマ。
 でも今描いているのは1ページに5コマ存在するような、いわゆる、本屋で売られてるような漫画だ。

 昔、あたしが「漫画は描かねぇの?」と尋ねた際、「私にはストーリーを作れる脳がないから無理」と言ってなかったか……?

 今になって描くようになったってそれは……何の意味が……?

 軽く眉を寄せたあたしの耳の奥に、引地の厳しい声が甦る。
『自信は重ねる努力で培われて前に進む足場を頑丈にしていくの。少ない可能性だって見つけて拡げて目標に近付くしか道はないのよ』
 と。

「先生が私をアシスタントにしたいと思えるような能力を身に着けないとダメと思った。だから、背景を描けるように練習しているの」
「背景?」

 でもお前今まで人の絵ばっか描いてなかったか……?

「考え直してみれば、アシスタントが人物なんか描かないと思うの。それは先生の役割だもの。アシスタントは背景や他の作業をすると思う。だから今は参考書を買ってきて、その背景をトレースしたり、自分なりに描いてみたりしているの」

 ……じゃあ、今までのお前の努力は……?
 必要なかったのか……?

 お前が頑張って作ってきた足場は、憧れの漫画家のアシスタントになるって夢に、向かってなかったっていうのか……?

「まだまだ、始めたばかりで出来ない事も多いけれど」

 呆然とするあたしの横で、苦笑を浮かべながらノートを見下ろす引地は座卓の端へ置いてある一冊の漫画を手に取る。表紙を一枚捲れば、見えるサイン。多分名前が書いてあるんだろうけれど、あたしには適当にぐちゃぐちゃっとした線にしか見えないその黒マジックの太字を、彼女は大事そうに撫でた。

「やっぱり好きだと思うから。私は努め続けるわ」

 山のように部屋中積み上げたノートは多分200冊は越える。片付ける時面白がって数えていたら優に100冊は越え、馬鹿らしくなって数えるのをやめた。片付け終えた時、数えた100冊の量を参考にざっと見積もったらたぶん200は越えると思った。そのノートに記してきた努力を……「無駄」だなんて言いたくはない。けど……役に立たなかったと言ってしまえるこの現状でも、コイツはまだ同じように一から努めて、重ねていくと言うのか。

 ただ好きというだけで。

 アシスタントになりたいというだけで。

「お前修行僧かなんかかよ……」

 ツッコんだ自分の声がなんだか泣きそうだった。

「修行僧? 私は大学生よ」
「知ってるよ……」

 バーカと言いたかった。でも言えなかった。
 馬鹿じゃねぇ。こいつは全然、馬鹿じゃねえ。

 カッコイイくらい真っ直ぐで、努力家で。
 あたしが最近ストーキングしているあの人と似てて。でももしかすると、それ以上の真っ直ぐの努力家かもしれない奴だ。

「サイン会の時、足りなかったから……努力していなかったから自信が無くて行動が出来なかったのよ。もっと努めて、次会った時には胸を張れるように私は腕を磨くわ」

 今の話があなたの今後の参考になるかどうかは分からないけれど、と引地は眉尻をさげた。

 参考……。
 参考か……。

 あんたは私の先の先の先を歩く人だ。だから正直今すぐ、参考にはならないかもしれない。
 けど、「無駄」にはしたくない。

「ちょっと、考えてみる。ありがとう」

 できるだけ精一杯素直に礼を述べると、引地は目元を和らげて「役に立ったなら、よかったわ」と親切な坊さんみたいな事を言うのだった。



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