第19話 武藤と近付けない人

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 あたしは引地の家に居た。
 大学進学を機に自分も一人暮らしを始めたが、家賃が安いという条件は必須だったあたしが住んでいるボロアパートは如何せん居心地が悪い。あと何気に、あんな家族でも居る方がマシだったのか最近妙に寂しいと感じて、飯を作ってやるのを言い訳にして彼女のマンションへ足繁く通っている。
 そんな訳で、今日もあたしは引地の家で、紙とインクの匂いに囲まれて、この家唯一のテーブルである座卓にぐったりと上体を預けてだらけていた。

 ゴールデンウィークが終わり、詰め込んだバイト疲れが出てへばってるんじゃない。
 これは体力的な疲労ではなく、精神的な疲労だ。

 連休中。
 バイト先や駅やバス停で見かける、休みを満喫する連中から何度も何度もあの人を連想した。
 今ごろ移動中かな。
 今ごろ温泉宿に到着したかな。
 今ごろ湯に浸かってるかな。
 今ごろのぼせてるかな。
 今ごろ浴衣着てんのかな。
 今ごろ懐石料理食ってんのかな。
 今ごろ布団に転がってんのかな。
 ていうか。誰と旅行行ってんだろうな。

 何度思い浮かべても、何度振り払っても、結局思考はそこに辿り着く。
 あの時食堂で聞き耳を立てて収集した先輩の声は、自分が旅行の予約をした訳ではないと言っていた。つまりは一人旅ではないのだ。誰かと一緒。最低でも2人。

 ……………………誰と行ってんだ…………。

 彼氏? 彼女? その他?
 その他ならいいなと考えを抱いてしまうってことは、あたしはやっぱりまだ先輩を忘れられてなくて、先輩が好き……なんだろう……か?

 一度彼氏を作っておきながら、そいつとヤッておきながらまだ好きですだなんて狂ってやがる。北添センパイと同類に成り下がった訳だが……それでもやっぱり先輩が誰と旅行へ行ったのか、その旅先で誰かと夜を共にしているのか、気になって仕方ない。

 終いにはなんかイライラしてきて、一度、ゴールデンウィーク中、引地と喧嘩したくらいだ。
 だってあまりにもこいつが、好きな漫画家のサイン会に行くんだとウルサイから…………あたしが八つ当たりしちまったんだが。

 それは流石に悪かったと思ってサイン会の日の翌日謝ったんだが、どうもその頃から様子がおかしい。
 あれだけ憧れて、あれだけバスケ絵を練習して、その人のアシスタントを目指してたんだ。
 サイン会が終わったら夢心地で、絵描きも忘れて幸せにまみれぽけーっとしてんじゃないかと思ったんだが…………なんか、逆で、塞ぎ込んでる。

 八つ当たりを謝ってももう気にしていないからとしか言わないし、どうしたと尋ねても今は言えないとしか答えないし。
 流石に心配になってくる頻度を増やして様子を窺っていても、なかなか引地は回復せずあたしはこうして傍に居るだけ。

 居ると言っても、マジでただ居るだけ。何があったかは知らないし励ますなり慰めるなりも出来ない。
 まぁ自分が先輩の件で落ち込んでて、引地を気遣う余裕がないってのもあるんだが……、いやでも、それでもな。引地は食う飯の量も減ってきてるし、口数は昔みたいに減ったし、これはなんかよくない気がする。

 あたしは座卓へだらしなく預けていた上体を起こして頬杖を着く。
 隣では、ノートにのの字を連続して書いている引地。こいつがバスケ絵以外をノートに書いたのなんて、自己紹介の時の自分の名前とニセのタイムスケジュールくらいしか見た事なかった。なのに最近はほとんど、ずーっとこの調子。
 前なんか、「あ」を100個以上書いててゲシュタルト崩壊起こして、途中でみたこともないひらがならしき物をつくり出していたくらいだ。

 ……流石にやばいだろ。

「なぁ」

 ノートの端を指先でノックしながら呼ぶと、「……なに?」と返事はきた。
 返答できる余裕はあるんだよなぁこいつと分析しつつ、顔色を窺えば、視線がぶつかる。なんだか久しぶりに、目と目を合わせたと思う。

「正直、あんたが心配だ」
「……」

 応える言葉が探せなかったのか、それとも、”だからなに?”と思っているのか。
 引地が何も言わないからあたしは続けた。

「サイン会に行ってから明らかに様子がおかしい。飯も食わなくなってるし、絵も描かない。サイン会で何かあったのか?」
「それは単なる興味ではないの?」
「興味?」

 返された質問に眉を歪めた。
 興味? 興味ってなんだ? そりゃあサイン会で何があったかについて興味は持ってる。だってそこで何かがあったせいで引地がこういう状態になっちまってるんだろうから……そりゃま興味は、あるにゃある。

 が、久しぶりに見つめた引地の目は、不機嫌と言うよりは不快そうにあたしを睨んできた。

「珍しくて、気味が悪くて。でも自分達とどこが違うのか知りたくて。知的好奇心と言えば聞こえはいいけれど、向けられる視線は好奇と恐怖と嫌悪と歓楽を2対2対4対2で送りつけてくる無礼極まりない興味を、あなたも持つ訳ね」
「はあ……?」

 最近のこいつにしては、珍しい。
 最終確認もせずに、こちらを推し量り、決めつけた。

 あたしの事が分からないならちゃんと聞け。お前が分かるまで答えるから。と教え込んだモヤモヤを消す方法もかなぐり捨てて、妙に攻撃意識を高く持つ引地に、あたしは後ろ頭をガリガリと掻く。
 最初会った頃みたいだ。
 ”ふつう”が分からない自分に対して、まともに接してくれる人間が少なく、何度も重ねた経験で嫌気が差して……いや差すどころでなく嫌気がめった刺しにしてくるレベルで不快を浴びる状態だった引地が、ほとんど誰とも喋らずにただただ絵を描くだけになっていた頃。

 あたしの勉強に付き合ってくれる一方で、どういう言葉を交わせばいいかを慎重に学んで吸収していた引地は、ちょっと今ダウンしちまってるらしい。

 しゃーねーなぁ。

 またイチからやり直しかよ、とか。
 面倒くせぇ奴だなぁ、とか。
 ハリネズミみてぇだなぁ、とか。

 色々思うけど、あたしはやっぱり、コイツは”いい”と思う。
 ”いい”っていうのは……面白いとか、興味を惹かれたってことだ。

 いつまで経っても、あの時と同じようににやけちまう存在の引地に、また笑っちまいそうだ。

「何がおかしいの」

 笑っちまいそうだ、なんて思っておきながら、実際顔で笑顔を作っていたらしい。
 文句が百万個あります、と面にでかでかと刷ってある引地はこれでもかってくらいに睨んできた。

 まぁでも、コイツの睨みなんて先輩のガン飛ばしに比べたら子犬みたいなモンだ。

 そう考えるとますますなんだかおもしろくなってきて、あたしは引地に手を伸ばす。

「な……に」

 生まれて1回も色を染めても抜いてもない髪は、予想以上にサラサラだった。1本1本が細くて、肌にあたる感触が気持ちがいいと思える。
 自分の方に手が伸びてきて一瞬身構えた引地が、触れた途端大人しくなったのは、なんかこうキャンキャン吠えてたチビ野良犬が撫でられた瞬間「あ……? 意外とキモチイイ……」的な感じで撫でられるままになった瞬間みたいで面白れぇ。

 わしわしと頭皮を揉んでやって、とりあえず話を聞けるようになってくれた引地から手を引く。

「お前が言うように、あたしはお前がサイン会で何を体験してきちまったか気になる。興味ある。けど、面白がって訊いてる訳じゃなくて、なんかひでぇ体験したなら慰めてやろうかと思うからだし、落ち込む体験してきたなら励ましてやろうかと思うし、困った事があってあたしに何か出来る事があるならしてやろうかと思うからだ。お前の為になることをしたいと思ってても、何があったか知らなきゃ何もできねぇ。だから訊いてるし、その訊く行動にはもちろん興味が含まれる。そういう興味でも、お前は嫌か?」

 分かるように。理解が及ぶように。
 ひとつだけの言い方でなくて、意図を伝えきれる数だけ説明を放つ。

 あたしが地域雑誌に追われてた頃、大人の目は興味を向けてきた。なかなか上昇しない成績結果に呆れを向けてきた。最後の追い込みで一気に上がった学力に歓楽を向けてきた。
 どんな方法を? どれだけの時間を? 何を使って? どうやって成績をアップさせた?
 聞かれたのはそれだけ。どこが大変だったかとか、辛かったかとか、心理面には目もくれなかったし、取材陣が聞き出した情報から次へどう繋げられるのか、雑誌の記事の展開の事しか考えてないのは見るからに分かった。
 引地がこれまで浴びてきた不快の興味と、あたしのその体験はちょこっとだけ、被るかもしれない。

 だから嫌だったろうなぁと想像できるし、気の毒にも思える。
 何か手助けをしてやりたくなる。
 かつてコイツが、受験であたしを助けてくれた時のように。

 時間をかけてじっくりとあたしの言葉を考えてから、引地は首を横に振った。

「嫌ではないわ。そう思われているなら、サイン会の事を話したいと思った」
「じゃあ、話してくれ。何があったのか、お前がどう思ってるのか。これからどうしたいと思ってるのか」

 うん。と頷いた引地が喋ってくれたのは、かなり、意外な話だった。

 サイン会で、サインをしてもらっただけだと言うのだ。

「は……?」

 思わず目を点にしてしまったのは不可抗力だ。だってそんな当たり前の事をなぜコイツは気にして、病んで、塞ぎ込んでいたのか謎すぎる。は? と言いたくなって当然とあたしは主張したい。が、あまりにも不躾すぎるかと咳払いで誤魔化して、話の先を促せば彼女が補足した解説はこうだった。

 サイン会はサインをしてもらうだけでなく、握手やちょっとした一言の感想程度は言う時間はあった。それに差し入れという形でプレゼントを渡すことも許されていたそうだ。だけど、自分はなにも出来なかった。あの人の新刊を握り締めて列に並び、サインをしてもらう直前「おねがいします」と裏返った声で言っただけ。サインをしてもらった本を受け取り、「ありがとう」と笑ってくれた漫画家に頭を下げてその場を去った。
 ただそれだけしか出来なかったと、彼女はここしばらく嘆きに嘆いていたらしい。

「本当は握手もして欲しかったし、差し入れもしたかった。でも何を贈ればいいか分からなかった。自分の描いた絵も見せたかったし、アシスタントになりたいならせてくれってお願いしたかった。でもそのどれも出来ずにただサインだけもらってきただけ……」

 私……なんの為に絵を描いてきたのかしら。

 そう呟いて座布団の上で膝を抱え三角座りをした引地に、既視感を覚えたのは言うまでもない。
 既視感。いや、共鳴感、とでも言い替えられる。

 分かる。すぅっっっっっっげーーーーーーー分かる。
 今まで頑張って来たけど、いざ本番っつか、その時になると体が動かなくて、何すればいいか分からなくて結局何もできずにそのまま、ってな。

 分かる。すげー分かるわ。

 だからこそ、あたしは引地に謝った。
 不思議そうにこっちを見た彼女に頭をさげて、謝る理由を述べる。

「お前のその気持ちと行動が分かり過ぎて、あたしにしてやれることが見つからねぇ。あたしも今、同じような状況だったんだよ……」

 かくかくしかじかと説明して、あたしと引地は深く深く溜め息を吐くのだった。



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