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ここに座ると尻が冷たい。引地に連れられて戻った座卓前の座布団であたしは衝撃の告白を受けた。
引地は手を抜いていたそうだ。
何に関して手を抜いていたかというと、あたしの家庭教師だ。今までずっと、意図的に、ゆるーい感じで勉強を見ていた、と彼女は突然に白状した。
なんでそんな事をするんだと怒りながら訊けば、フルマラソンはペースも考えずに最初から全力疾走をするものではないから。と意味の分からない答えを返されて、あたしは座卓を叩いた。
でかい音に一瞬眉を顰めたものの、引地はあたしを一旦無視して1日のタイムスケジュールをノートに書き始める。
例えばで作ったものだと提示されたそのスケジュールは、引くほど勉強時間が設けられていて、「これを最初から続けられていた自信があなたにあるの?」と尋ねられると口籠るしか出来なかったあたしに、彼女はもう一度言った。
「私の立てる勉強計画に逆らわず、音を上げず、必ず遂行するなら合格を約束してあげる」
「正直……それをやれって言われたら……やり切る自信はマジでない……」
「でしょうね。こんな無茶な計画、私だって立てるつもりないわ」
こいつ……。あたしを黙らせる為だけにさっきの書いて見せやがったな……。
「まず睡眠時間は最低でも6時間はとらせるつもり。あなたはバイトで体力も使っているし、これからあと2、3ヶ月病気に罹らない体を維持するにはそのくらいは必要よ。だけど今まで遊んでいた時間は全て奪うし、移動時間だって無駄にさせない、ご両親の許しが出るならここに住ませて付きっ切りになりたいくらいだけど、流石にそれはムリと理解しているから安心して」
聞かされれば聞かされるほど引き攣るあたしに「安心して」とか言うけど、安心できるか! めちゃくちゃハードそうじゃねーかお前の計画!
「受験は、模試でAを取った人間でも、不合格にされる可能性がゼロではないのだから、残された時間で出来る全てをやる必要があるの。私も約束の手前、あなたを意地でも合格させなければいけないから厳しくするわ」
だけど、と引地は意気込みをすこし肩から抜いて、言葉を続ける。
「私が厳しくしても結局はあなた次第。あなたのやる気、行動が全て。出来ないかもしれないなんて弱気なまま挑んでもきっと無理よ」
毎回模試結果を見せているから、あたしがどの程度なのかよくよく理解している引地は急に、ニセのタイムスケジュールを書いたシャーペンを置いて、こちらへ手を伸ばしてきた。
急な行動に驚いて固まるあたしの目尻を人差し指の背で拭って、「もうこんなふうに泣きたくないと流した涙に誓うくらいはして挑まないと、挫折もあると思うわ」とか言ってくる。
「泣いてねーよ……!」
そこは見て見ぬふりとかしろよ! と思うのに、そういう気は利かせられないのが引地だ。
あたしの否定の言葉を「私のノートはあなたの涙でびしょ濡れよ?」と雪崩の一角を証拠として指差す彼女はマジで、なんてやつだと思う瞬間が多々ある。
バツの悪さや恥ずかしさ、ノートを汚した申し訳なさも、色々と混じればあたしはどうしようもなくて、睨むしか出来なくなる。眉根をぎゅっと寄せて彼女を射れば、返却されたのは苦笑だ。
「”ふつう”が分かる人達は……きっと私のような方法は取らないのだろうけれど、生憎と、私はこういう方法でしかあなたを合格へ導いてあげられないの。あなたにはとても迷惑でしょうけれど、これしかしてあげられないし、私にはこれしか出来ないの」
すいと視線を逸らした横顔はまだ苦く、
「だからあの場所へ行った方がいいとさっき提案したのだけど……」
引地はここで言葉を切る。後に続くのはたぶん「あなたが行かないと言ったし、あなたが私に頼むから」という具合のセリフだろう。
確かに、……そうだ。あたしが選んだし、望んだ。
けど、疑問に思う。
あんたが苦い顔をする必要が、どこにある?
いつもみたいにしれっとした顔で、無理なものは無理と拒否しきったり、重めの課題をやれるでしょう? と決めつけたりすればいい。
なのにどうして、あんたが苦しそうにするんだ?
それに。
「……なんで、そこまで助けてくれようとしてるんだ?」
あたしに勉強を教えても、調理済の料理が食べられるくらいの得しかない。
勉強に付き合う間、引地は絵を描く時間を奪われてる。
なのに、なんで、今以上あたしに時間を割いてくれようとする?
問い掛けに、引地は苦味の強かった表情を引っ込めて、こちらに顔を向けた。
ハッキリと物を言う彼女にしては珍しく言葉を探す間に、下唇を噛んでいる。
「……なんか、言えない理由か?」
「そうではなくて。なにを……いえ、なんて言えばいいか、よく分からなくて」
「は?」
難しい顔をして、非常に珍しく、悩みながら彼女が言ったのは、こんな事だった。
「背中が、あなたの。いえ、を。ね。あなたの背中を、もう見たくないと思ったのよ」
「……は……?」
こっちの方が難しい顔になってくるような発言。ひん曲げた眉が痒くなってガリガリと掻く間も、彼女は妙なくらい言葉を探している。
「向こうに座っているあなたの背中をもう見たくないと思ったの。それに、あの、ええと……だか、ら」
「なんだよハッキリ言えって。ズバッと白状しろよ」
らしくない。なにをまごついている?
せっつくように促せば、何故か、あたしは睨まれた。
「……あなたが泣いてないと言うから発言内容に困っていたのだけど、そう催促するなら言うわ。あなたに泣いて欲しくないと思ったから、あなたの望む事をしたいと思ったの。だから聞けばあの大学に合格したいと言うし、それに関して私が出来る事を提示しても中途半端な返答しか出さないし困っているのよ。合格したいと望むなら、少しはやる気を見せたらどうなの」
ムッとした表情で一気にいつもの調子を取り戻した引地は怒涛の喋りを展開させた上、仮に座っていなければ仁王立ちして腰に手をあてそうな雰囲気で責めてきた。
内容は献身的なんだが、言い方や纏う雰囲気でこっちは叱られているような気分になる。
「最初のE判定から言えばCまで上げたのよ? あなたはコツを飲み込めば早いのだからあとはやるだけなのに。どうして今になって折れるのよ。あなたの好きな人に対する思いはもう消えたの? 揺るいでしまったの? あれだけ楽しそうにバスケをする人が、その部活動も辞めて勉強とバイトを優先させた挙句、その両立なんて事をしているのだからあと数ヶ月くらいやり切りなさい。私は見込みがなければここまで付き合わないし、今以上の時間をあてるなんて言い出したりしない。出来るだろうと予測できるから手を貸すけれど、結局はあなたの受験だし、あなたの勉強なの。自信は重ねる努力で培われて前に進む足場を頑丈にしていくの。少ない可能性だって見つけて拡げて目標に近付くしか道はないのよ。端でめそめそしてる背中は嫌。あなたはいつもみたいにしていなさい。私達と違ってあなたは出来る事が格段に多いし、その中でも能力は高い。こっちは無くて困っているものを持っているくせに、気持ちとやる気だけで解決する問題に躓いているなんて腹立たしいわ。やると決めてやる。それだけよ。出来るでしょう? 出来ないと答えるなら出来ない理由がどこにあるか説明なさい。そうでないなら、やる。やりなさい。いいわね?」
気圧されたあたしの両肩を掴んだ引地は、ガクと揺すって、「わかったの?」と強い口調で訊いてくる。
頷くあたしに、ふんすと鼻から息を抜きながら頷く彼女は、ニセのタイムスケジュールを書いたページにパンと手のひらを叩きつけて、こっちを見た。……いや、睨んだ。
「やるのね?」
「…………ハイ」
「よく言ったわ。必ずあなたを合格させるから」
「……ハイ」
うん。と大きく頷く引地が、こんなに喋るところを初めて見た。
驚いたし、若干八つ当たりも感じた。だけど。
あたしはなんでか……嬉しかった。
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