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いつも通り家庭教師のマンションまでやってきたあたしは1階のエントランスの奥にあるセキュリティドアの横で303と入力し、インターホンを鳴らした。
プツッと回線が繋がる音を越えて、聞き慣れた引地の声が言う。
『何事?』
さすがの引地でもなんらかの反応はあるだろうと思っていたから、カメラに向かってにやっと笑いながら髪を掻き上げてみせる。
「カッコイイだろ?」
『……あがってきて』
オイ。同意も否定もナシとかどういう事だ。
ブリーチ3回もしたんだぞ、スゲー大変だったんだぞ。
開いた自動ドアをくぐり抜けて階段で3階へのぼる。このマンションは7階建てで、3階まではちょっと狭い感じの一人暮らし用の間取り。4階から6階は広めでギリ2人で住んでも暮らせそうな間取りらしい。
引地が絵を書く時に不動産屋で見せられるような間取りをネットで調べて資料にするそうで、このマンションの造りを知ったらしい。
ちなみに最上階は1度もネットで見かけた事がなく、人気過ぎるのか空き部屋になった事がないのかもしれないと彼女は言っていた。
つか! そんな間取りより!
303の部屋のドアの横。インターホンを連打して彼女を呼び出す。
ドアの向こうに足音が近付いてきて、カチャンと鍵を開ける音の直後、薄く開いたドアを外から引っ張って大きく開けながら「うるさいわ」という文句にあたしは被せた。
「カッコイイだろこの色!」
自分の頭を指差して、いつもと変わらない様子の家庭教師に笑ってみせる。
「うるさいわ」
重ねてぶつけられた文句に口を尖らせながら、意気揚々とやってきたあたしは気分を害する。
もーちょっとさ~、なんか感想とか言うだろ? ふつー。
あたしを置き去りにしてリビングへ戻っていく彼女を追いかけて、相変わらず紙とインクの匂いのする部屋へと足を踏み入れる。
部屋の一角では積み上げていたノートが雪崩を起こしていたが無視無視。来る度どっかの山が雪崩を起こしてるんだから、毎回直してたらキリがねぇ。
「な~おい。どうこの金髪! かっちょいーだろ?」
「高校生らしくない色と思うわ」
かっこいいとは思わない。と引地は座布団へ座りながらこちらを見上げた。
これまでの付き合いでハッキリと自分の意見を言う彼女の物言いには慣れたものの、自分がイイと思っているこの金髪を貶されるとなんでだよと言い返したくなる。
あたしはほとんど、あたし専用になっている座布団へどすと座り、彼女の隣で頭を突き出す。
「ほら! 見てみ? 根本までバッチリ金! 外国人より綺麗なブロンドだろ?」
うるさいなぁと思ってそうな溜め息が聞こえてきたが、あたしは根元を見せたくて頭を突き出す姿勢を止めない。
なにせ、この金髪を家族以外に見せるのは初のこと。
学校はぜってー生徒指導に睨まれるのは目に見えるので、シャンプーすれば落ちる黒染めスプレーを使ってから登校してるし、ストバスにはまだ行ってない。バイトのシフトはたまたま3連休だったので明日見せることになる。
だから他人に見せるのは初。
反応を期待してやってきたのに、引地の反応といえばあんまりなものばかり。
もっとよく見ればこの金髪の良さが分かるぞと見せつけているものの、彼女は二度目の溜め息を零した。
「とても人工的な金色に思えて目に眩しいわ」
でも、と引地が言いながら、あたしの頭に触れる。
項を垂れるあたしの髪へペンだこのある指を通して、砂時計の落ちる砂みたいに、さらさらとこぼしながら呟く。
「とても綺麗」
囁き混じりなその声にどきっとした。し、引き続き髪を梳かれる指の感触が案外気持ち良くてあたしは正直狼狽えた。
トットットットッと走り始めてしまった心臓を鎮めたいけれど、その方法が分からない。
「カッコイイって言わなかったくせに今更褒めてももう遅いぞ」
苦し紛れの憎まれ口を叩いても「カッコイイとは今も思っていないもの。まるで龍のひげ飴みたいに綺麗と思っているのよ」と平然と言い、何度も何度も、髪を梳いては指の間からこぼしている。
龍のひげ飴? なんだそれ? と気になったものの食い物に例えられたのは分かったので少し釈然としない。
が、なんとなく彼女の評価の分類が別れていることには気付いた。
たぶん、カッコイイと綺麗は別物なのだ。だからカッコ良くはないが綺麗と褒めているんだろう。
「それで、あなたはどうして黒色から金色へ髪を染めようと思ったの?」
相変わらず髪を撫で梳きながら引地は訊いてきた。「なんで?」「どうして?」「なにが?」人間である彼女に、染髪理由は尋ねられるかなと予想していたので、あたしは用意していた解答を提示する。
「勉強ばっかで飽きてきたし、パーっとなんかやりたかったんだよ」
受験勉強も追い込みのシーズンになってきた。そんな時期だから通用すると思っていた。
なのに引地はいきなり髪を触るのをやめてあたしの顎に手のひらをあててきて持ち上げ「ぬぐぇ」と妙な呻きを気にも留めず、顔を覗き込んでくる。
「っにすんだよ……!」
首折れる! と騒ぐこちらに彼女は笑う。「下手な嘘なんか吐くからよ」と。
「まだ、洋画に出てくるスターに憧れてという理由なら信じたかもしれないのに。意外と嘘がつけないのね?」
「っそれもあるし!」
これまで勉強の合間の休憩に様々な話をしてきたから、コイツはあたしの趣味嗜好には詳しい。だから洋画好きというのも把握しているし、気に入った映画の世界に浸りやすい人間だという事も知っている。
ケドこんなふうに易々と「私は”ふつう”が分からない」と言っていたコイツに見抜かれるのは、非常に、ひっっっっっじょーーーーに! 不服だ。
「あなたの事だから黒髪の自分が嫌になって遠ざかりたくて、物理的に簡単な変化を求めたんでしょう? けれど、見た目が変わったって中が一緒ならメッキと同じよ?」
「ああもううっせーな!」
なんで説教されなきゃいけないんだと声を荒げると、引地は意外にも、小さく笑った。
こんな場面では「どうしてあなたが怒るの。本当の事を言っているだけなのに」とか真顔で言うようなヤツなのに、なんか優しそうなカオを見せてこられると、調子が狂う。
「……なんで笑ってんだよ」
「あそこでバスケをしている人達の言うとおりに、あなたが笑ったから。点が線になって嬉しかったからよ」
「はあ……?」
何言ってんだお前いきなり……と胡乱な目を向けるあたしに、引地は説明してくれた。
ストバスのコートに居るヤツらに、あたしの事を頼まれたのだと。
最近は彼氏ができたらしくてここに来る頻度も減って自分達が気を配ってやれない。でも引地は頻繁に会うらしいからよくよく注意して見てやってくれ。あいつはしんどくなったら出会い頭、ほっとしたちょっと泣きそうな顔で笑うからそれが出たら、気を配ってやってくれ。
そう言付かっていたのだと引地はバラす。
「なにそれすっげ恥ずいんだけど……」
ほっとしたちょっと泣きそうな顔で笑う?
そんな顔、今日、したか? てかストバスでもそんな顔、してたのかあたし……?
自分でも分かってなかったクセを周りが知っていた居心地の悪さに身動いで、「つかお前いつの間に皆と仲良くなってんだよ」と言葉をぶつける。
「仲良くはなっていないわ。あなたと、あそこの人達は仲良しだから私に声が掛かっただけ。……それと、”気を配る”というのが何をすれば遂行されるのか教えてもらえなかったから、私はあなたの状態に気付くことはできたけれど、これ以上あの人達の頼みにそぐえないと思うのよ」
……たぶん引地の事を気味悪がってたヤツらのことだ。自分達の言いたい事だけ言ってきちんとした言葉のキャッチボールをせずに去ったのかもしれない。
「だから、今から、あそこに行ってきてはどう?」
「……勉強はどーすんだよ」
「つらい時には、休むことも必要よ。特に長期戦中はね」
あまり休みすぎるのもどうかと私は思うけれど。ときっちり付け加えるあたしの家庭教師は、龍のひげ飴と例えた髪を梳くではなくて、その上へ手を乗せてきた。
頭皮にじわりと温度が伝わってくるそれを左右に擦り、そんなに大きくない幅であたしを撫でながら真っ直ぐ見て「行ってくる?」と訊く。
ぐうと唸りたくなる程大きななにかの感情が腹の方から胸にあがってきて喉に詰まる。耳ぬきみたいにない唾を飲めば、絞め上げられた人間みたいな音が喉笛から出た。
奥歯を噛み締めていないとカチカチと歯が鳴ってしまいそうで、唇は力ませていないと震えそうだ。
呼吸も意識を向けていないと安定を失いそうだし、じわと膨らんだ目の水分も縁からこぼれそうだった。
だからあたしは咄嗟に顔を伏せてから横に頭を振る。「寒ぃからいーよ」と提案を拒む。
「だけど――」
「――行かねぇ。……ここに居る」
この状況で、家に帰るという選択もなくはなかったが、選ばなかった。自分では選べなかったのか、選ばなかったのか、分からない。
あたしの視界には、座布団が二枚とそれぞれに座る人間の下半身がぼやけた状態で映ってる。
俯くんじゃなかった。下なんか向いたら、重力モロに食らうじゃねぇかと悔いるが、今更でしかない。
溜め息というよりは、すう……と鼻から抜いた長めの息。不承不承や呆れや諦めが含まれたそれであたしの金髪を微かに揺らした引地は、頭から浮いていた手をそっとまた乗せてきて、あたしを撫でた。
「居ても構わないけれど、私は何の助けも出来ないわ。でもあそこへ行けば助けてくれる人は沢山いる。それでも、いいの?」
「いいって言ってんだろ」
「そう」
ああもう手を離せよ。そう心の中では言えるのに。
「私にして欲しいことは何かある?」
「……ねーよ」
「そう」
ほんの微かな、髪と手のひらが擦れる音以外、しばらく何もなかった。
静寂、と言っても過言ではなかった部屋に、ウィーこーー。とエアコンが口を開け暖房の風を送り始める。設定温度よりも低まった室温を感知して再稼働し始めたのだろう。
それをきっかけに、あたしは背後の部屋の一角を指差した。ノートの山が雪崩を起こしている場所だ。
「あれ。片付けていいか」
「そうしたいの?」
「したい。し、中、見てもいいか」
「どうぞ」
頭から、手が退いた。
部屋は暖かいはずなのに、手が触れなくなっただけで寒いなと思いながら立ち上がりざまくると背を向け、雪崩の麓へと座った。
尻が冷てぇ。そう思ったけど、座布団を取りに戻る気にはなれない。座り続けてれば徐々にあったかくなんだろと諦め、一冊手に取り、開く。
1ページ目からバスケの絵だ。
どれも、これも。何枚捲っても、バスケ、バスケ、バスケ。
真っ直ぐ。ただ真っ直ぐ、あいつは憧れの漫画家に会ってその人が漫画を描く所を見たくて、それだけを目指して、歩き続けてる。
よそ見もしないで、寄り道もしないで、迷子にもならないで、真っ直ぐに。
それに比べて、あたしはなにやってんだ。
これだけ勉強続けて、教えてもらって、やっと到達できた模試結果はC判定。合格率は50%。せめてB判定まで昇らないと合格圏内には厳しい。世の中にはE判定で合格できたという人間もいるにはいるらしいが、そんなのほんの一握り。運みたいなもので、宝くじと一緒だ。
もっと勉強しなきゃいけない。
やってるけど、思うようにできない。
それに……元々、あの大学を目指し始めた理由だって先輩を追いかけて、会いたかったから。
そのはずなのに、あたしは彼と付き合った。
それなりに恋人というものを楽しんでしまった。
だけど結局、最後の最後には、彼に抱かれながら彼でない人を想った。
卒業式の日、北添センパイにぶつけた言葉が特大ブーメランになって返ってくる。
あの時ブチギレするくらい腹を立てた行動と、同じ事を自分がしている。
別れた彼にだって悪い事をした。彼は何も悪い事なんかしてないのにあたしは急に別れを切り出して、受験を盾にして強引に離別を了承させた。悲しそうにしながらも「頑張ってな」と笑ってくれた彼の眼は未だに忘れらない。
バイトだってそんな事があったから、辞めた。せっかく、何十円かだけだったけど頑張っているからと時給を上げてもらったばっかりだったのに。
他を探して働き始めたけれど、新しいバイトに慣れるにはまだもう少し時間がかかる。
このままあの大学を受験して、不合格になって、この1年やってきたことを無駄にするんじゃないかと思えて仕方ない。
ここ最近の自らの行動を顧みて想像できる未来なんて、受験料を無駄にして、結局親が言っていた通り高卒で適当な所に就職する安くて下らない未来しかない。
大学の学費の為のバイト代だって、就職したなら必要ないだろと親にもぎ取られて、あたしには何も残らない。
自分のせいだ。
自分がもっと頑張ってこなかったから。真面目に勉強してこなかったから。真っ直ぐに先輩を想い続けてこなかったから。部長の役も全うしなかったから。
だから、こんな今しかないし、欲しい未来も手に入らない。
誇れるものが一つもなくて、大事にしろという忠告すら守れず手放して。
なにもない。
何ひとつないあたしがここに完成してる。
どうにかしたくて髪の色を抜いた。
抜いたところで。外見を変えたところで何も変わらないと心のどこかで思ってた。さっきも引地に言われた。
その通りだ。そうでしかない。
こんなの、無意味でしかない。
金の根元を毟るように掴んで握るけれど、一掴みしたそれがごっそり抜けるはずもない。無駄に痛くて、意味がなくて。いっそきちんと抜けるように少量を一気に引っ張ればいいのにその痛みに耐える気概もやる勇気もない。
きっと、あのカッコイイ背中を見せて守ってくれた人なら、こういう時やりそうなのに。
いやそもそも、こんな事態にならないくらいあの人は真っ直ぐでカッコイイ人生を歩いていくだろう。
気になって、傍に居て。たまたまあの人の周りの他が駄目過ぎてあたしが一番傍に居れただけ。
自分が凄い奴だからあの人の傍に居られてるんだなんて、思い上がってた。思い込んでた。
でも、先輩は。格が違うあの人はすぐに居なくなった。あたしなんか必要ないから、置いてった。
それが分かっていながら憧れを捨てられなくて、好きな気持ちを後から自覚してしまって、追いかけて。でも全然、全然、全然……全然追いかけれてなくて。
ふらふら、ふらふら、定まってなくて。どうしようもないクズなあたしに、これから何が出来る……?
なにも……。
なんにもできやしない。
「ねぇ」
すぐ後ろから掛かった声に、驚いた。
考えに必死で、声を殺して泣くことに必死で、引地が近付いてきていたことに全く気付かなかった。
涙も鼻水も、だーだー流して彼女のノートを汚しているあたしは振り向けない。
そんなあたしの胡坐の横へ、ぱたんと置かれたのはティッシュボックス。わざわざ新品を開けて、ご丁寧にゴミ箱までそのまた横へ置いてくれた彼女は、どうもあたしの後ろに座ったらしい。丸めたあたしの背中と反り気味の背中が、くっつく感触がある。
「私にして欲しいことは何かある?」
コイツは変わった奴で、全然料理が出来ない奴で、ムカつくこともある奴で、空気が読めない奴で、”ふつう”が分からない奴で、「なんで?」「どうして?」「なにが?」人間だけど、すげーすげー、優しい奴だと思う。
「そんなに泣いているあなたに何も出来ないのは、とても嫌なのだけど、私に出来ることは何かないの?」
泣いてねーよクソがと言い返す事も出来ずに、鼻水をかむ。一枚じゃ足りなくて、二枚、三枚とティッシュを使って、鼻水を排出する。
そうしているあたしが、彼女からの質問を無視しているとでも思ったのか、引地は後頭部同士をごんごんと当ててきた。
「いてーよ……」
「あなたが何も言わないから」
泣いてんだからこっちのペースに合わせろよと言ってやりたいものの、泣くのを認めたくなくて、大袈裟な咳払いで涙声を振り解いて後頭部頭突きを1回だけやり返して、無茶を言ってやった。
「だったらあたしを合格させてくれ」
「あの大学に?」
「ああ」
来年、大学に進学できてなかったら、あたしはホントに何もない人間になっちまう。
金の問題で、受験する大学は一校に絞らなきゃいけない。
ランクを落として合格を優先させる手もあるけど、それで低ランクの大学に行ったところで。
先輩が居ない大学へ行ったところで何になる?
C判定合格率50%の人間を合格させてくれだなんて、無茶を言っているのは分かってる。
けど、引地にして欲しいことを訊かれると、それしか望むものは思い付かない。
そんくらいしかお前には頼めねぇよと言おうとしたあたしより先に、彼女は答えた。
「私の立てる勉強計画に逆らわず、音を上げず、必ず遂行するなら合格を約束してあげる」
「は?」
その代わり、とても厳しいけれど。と脅す女は、あたしの後頭部をごんと頭突いてきた。
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