第10話 武藤と家庭教師と講師代

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 やっぱり安易な決定は避けるべきだったのかもしれないとこの時間はいつも思う。
 電車に乗って、45分。歩きで15分。一時間かけて、あたしは家庭教師の家に通っている。

 普通さ。家庭教師っていうと、自分の家に来てくれるものだと思う。ケド、あたしはあの怪しい人……引地望に金を払って勉強を教えてもらう訳じゃない。それと、自分の家は誰か人を呼べるような家じゃない。
 この条件があいまって、あたしは彼女の一人暮らしをしている家に通う。

 行き1時間。帰り1時間。合計2時間をかけて引地の家へ通う。それはどう考えても時間の浪費で、やっぱり教えてもらうのは辞めた方がいいんじゃないかと思った。
 けど、行く度毎回辿り着いた家では、その思いが消え失せる。
 壁という壁に貼られ、床という床に積まれた絵を目にしたら、来てよかったと思ってしまうのだ。

 加えて、引地は教え方が上手かった。
 どうして上手いのかというと、あたしがなんでその問題を間違えたのか、原因を解明する力がとてつもなく強いからだ。いつも「なんで?」「どうして?」「なにが?」と訊いてくる人間なだけあって、こっちの誤った理解を指摘して正してくれる。ああなるほどなと思える所まで導いてくれる。

 それらの理由で、2時間の移動もやぶさかではないと思えてしまって、あたしは夏休み、週4のペースで彼女の元へ通っていた。

「少し休憩しましょうか」
「少しじゃなく休憩しようぜー。頭噴火しそう」

 あなたの頭に火口は見当たらないけれど? と返してくる引地の部屋でゴロンと床に転がる。絨毯も敷いていないフローリングは冷たくて気持ちいい。
 クソほど暑い夏なので部屋に冷房は入れてくれているものの、それは28度設定。正直暑い。せめてあと3度下げてくれと思うものの、さすがにタダで勉強を教えてもらっているからそれを口には出せなかった。

 アルファベットの羅列を見つめすぎて目がチカチカする。なんで受験に英語が必要なんだよここは日本国だぞ鎖国しろ。
 めちゃくちゃな事を思いながら唸っていると、引地に「ねぇ」と足を引っ張られた。

「あん?」

 閉じていた目を開け首だけ起こして、座卓で頬杖をついている彼女に視線を遣ると「おなかすいた」とのこと。
 毎度の要求に呆れ、起こしていた頭をゴトンと床へ落として寝たふりを決め込む。

「次はハンバーグ作ってくれるって言ったじゃないの」

 文句が飛んでくる。
 言ったは言った。けど、さぁ……。

「お前が前回鶏挽き肉なんか買ってくるから食い損ねただけだろ……」
「ミンチとしかあなたが言わなかったからどれでもいいのかと思うじゃない」
「ハンバーグ作れっつって鶏用意する奴があるかよ……前作ったシューマイもどきも美味いっつって食ってたじゃん」
「確かに食べたし美味しかったけれど、あれはハンバーグではないもの」
「へーへー分かりましたよ作りますって」

 どっこいしょと掛け声と共に体を起こして、見下ろす先の人物へ「休憩じゃなかったのかよ」と文句を言ってやる。が、「講師代だもの。正当な報酬よ」と返された。

「へいへい」

 コイツには口じゃ勝てないな。と改めて言い争う事を放棄したあたしは、部屋中に積み上げられたノートを避けながら歩く。
 引地の家へ初めて踏み入れた時には、自分の家より汚い家を初めて見たと感動を覚えたくらいに、この家は汚い。……いや、汚かった。

 あたしが流石に足の踏み場もない家では教えを乞うのも無理と判断して掃除したのだ。だからまぁ一応、”汚かった”という過去形にしてもいいレベルには、散らかりに散らかっていたノートも描く道具も服も、種類ごとにまとめて積み上げる、という段階まで片付いている状況。

 幸いだったのは、コイツが食い物系を散らかさない汚部屋の主だったという点で、汚い部屋特有の臭いはなかった。代わりにあったのは、紙と文房具の匂い。文房具っていうか……インクの匂い、か?
 なんていうか、本屋の匂いが、この家はする。

 一人暮らしの女子大生の家と訊けば、なんかこう芳香剤とか柔軟剤とかそういういい匂いがすんのかなと想像するけど、全く違う。
 女子らしさなど欠片も無い。あるのは紙とインク。でもそれがなんだか心地良い気がしてきたのは、いつからだろうか。

「玉ねぎまだあったよな?」

 後ろをついて来る彼女に問うも、首を捻られた。
 溜め息を吐きたい。なんでこの家の主が、キッチンにある食材を把握してねーんだよ……。

 まぁでも。それは今に始まったことじゃない。
 気を取り直してキッチンに辿り着き、冷蔵庫の前のダンボールを見て、ぎょっとする。

「増えてやがる……」
「今朝届いたの」
「4日前に来たばっかだろ!?」
「おばあちゃんが送ってくれるんだもの」
「……加減を覚えてくれってばーちゃんに言っとけよな……」

 あたしの目の前へあるのは、若干しなびたダンボールが2つ。
 1つは知ってる。4日前引地の実家から送られてきた野菜がたっぷり入った、いわゆる現物支給型仕送りだ。それがもう1箱増えていた。

 なんでも引地の実家はド田舎らしく、周りは畑、田んぼ、山、という村具合らしい。そこでは各家それぞれ家庭菜園をもっていて、自分ちでとれた野菜を持って近所へ行き、お裾分けという名の物々交換をするのが主流……というか当たり前の場所らしい。
 で、孫が可愛くて仕方ないばーちゃんが、頻繁に。かーなーり頻繁に、一人暮らしの孫へ得た食材を送ってくれるのだ。
 おかげで引地はほぼスーパーやコンビニに行かなくても生活が出来るレベルの食材はあるものの……、本人はまっっっっっっっったく!! 料理が出来ない奴だった。

 じゃあ今までどうやってばーちゃんからの野菜を食っていたんだと言えば、生か、焼くか、茹でるかして食べていたと言うのだ。

 極めつけは、たまにばーちゃんが送ってくれるサバの水煮缶も、皿に出してレンチンもせず、冷たいまま食っていたというから驚きだ。

 なんでそんな原始人みたいな食い方しかしねぇのと訊けば、生で食べるのは流石に良くないと思ったし火が通ればいいかと思ったから。缶詰は水煮と書いてあるくらいだから一回火を通してあるし、おいしくなくても食べれるしいいと思った、とのことだった。

 料理、作ってやろうか?

 あまりにも不憫で、勉強を教わりに来たものの、そう言ってしまったのがそもそもの始まりだった。
 だって、不憫だろ。ばーちゃんが。
 孫を想って送ってきた野菜たちが、ただ素焼きで食われるのはひどすぎる。

 ざっと食材に目を通した所、旬で、流石田舎! と言いたくなるくらい新鮮でいい野菜ばかりだった。それに、旬でない物でもばーちゃんが近所のスーパーで仕入れたのかもしれない。バーコードつきのビニールでまとめられた野菜がダンボールには入っていた。
 引地ではなく、それらがあまりにも不憫過ぎたのでつい申し出たら、あれよあれよという間に、”勉強を教える代わりに料理を作る”という交換条件が後付けされてしまったのだ。

 まぁ料理なんて家でもやってるし、そこまでレパートリーは多くないものの、下手ではない。
 だから了承したあたしが、いざ料理を作ろうと思ったら、心底困った。

 この家には、包丁が無かったのだ。
 まぁあるにはあった。果物ナイフ。ちっちぇし、切れ味最悪だし、まな板はきったねぇし。流しは顔を近付ければ臭い程度には汚かった。
 おまけに調理器具は玉子焼き用の四角いフライパンと、ホーローのミルクパンがあるだけ。
 こんなんじゃ料理が出来んと文句を言いながら調味料を探せば、ない。油も塩コショウも砂糖も酢もみりんも醤油も料理酒も、何もない。もちろん中華スープの素もコンソメも味噌もない。

 マジで炒めるか、水で煮ただけで食ってたのか……、とバケモノを見る目を向けても、引地はケロッとした顔で「何か必要なものがあれば買ってくるけれど?」と首を傾げていた。
 まともな料理を作る為の道具、材料を揃えるとなると結構金がかかると言えば引地は3万円が入った財布を見せてきて「これで足りないなら下ろしてくる」と言う。

 いや足りる。
 足りるけどあんたの金で買っていいのかと問えば、当たり前と言う彼女。どうやらこいつも、まともに飯を食えない事態に一応は困っていたらしい。

 それならばとその日は大きめのスーパーへ一緒に買い物へ行って、まともに料理が出来るだけの道具と材料を仕入れて、とりあえず、大量の野菜を消費できるポトフを作って食わせた。

「水で煮ただけよりは美味いだろ?」

 相伴に与りながら彼女へ問えば、引地は真面目くさった真顔であたしに頷いた。

「あなた料理を作る天才ね」

 まさかコイツからそんな褒め言葉が出てくるだなんて思いもせず面食らったあたしは数秒黙ったけれど、簡単な調理しか必要としない料理を前に「誰でも作れるぞこんなん」と返す。が。

「いいえ。私は作れないもの。美味しい。すごく美味しいわ。天才よ」

 予想を大きく上回るくらいに、褒めちぎられた。
 家で、家族全員分の食事を用意しても何も言われなかったあたしの料理を、引地はキッパリと褒めちぎった。

 何も絡んでいない喉で何度も咳払いをするくらいには、腹の底がふわふわむずむずしたし、「次はあなたの作ったオムライスが食べたい」と要求してくる遠慮のない訴えに、なぜかにやけてしまった。

 そんな形で始まったこの家庭教師への報酬としての調理。
 あたしは意外と、嫌いじゃなかった。



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