美人







「あれ」

 てっきりデスクに居ると思って、彼女に回そうと思った仕事のファイル片手に近付けば、そこは無人だった。

 あたしのぼそりと吐いた独り言を聞きつけた伊東が、座ったままこちらを見上げて「金本さんなら資料室です」と教えてくれる。が……。

「資料室? ひとりで?」

 部長のあたしや、次長の愛羽があの部屋に出向く事は滅多にない。
 そんな雑用は部下に任せればいいのだ。
 誰でも出来ることは下の者に回して、あたしたちは、誰でもが出来ない仕事をする方が効率がいい。

「俺がついて行こうかって聞いたんですけど、忙しいだろうからいいって断られちゃって」
「あ、そ。ならしっかり仕事してなさい」

 伊東の隣のデスクで、普段からこいつの仕事っぷりや、その内容を目の端でキャッチしている愛羽が同行を頼まなかったという事は、そういう事だろう。
 今、伊東は手一杯なのだ。

 あたしはヒラと手を振って、企画営業部の出入り口へ向かう。そして行く先は、資料室。
 埃っぽいあの部屋には背の高い棚が並んでいる。
 彼女の身長では少々きついものがあるだろう。

 今の時期、大概皆手一杯で、暇そうにしているのは誰一人としていない。
 あの多田でさえ、色々と雑用を任されて、走り回っている状態だ。
 その忙しさの中、誰かに雑用を頼むくらいなら自分で必要資料を持ってくるつもりだろうが、出来る事と出来ない事の区別がまだ、甘い。

 自分が頑張ればなんでもなんとかなると思っている節が強い愛羽がもし、高い棚から重たい資料を取り出して転んだり、その重たい資料を足の上に落としたりで、負傷してもらっては困る。

 うちの部署で、あたしの次に有能なのだから、戦線離脱されては困るのだ。

 まったくアイツは、その辺りの事を解っていないで頑張り過ぎるんだから。と嘆息を吐きながら、エレベータに乗り込む。

 ――そういう所を、すずちゃんは解ってるのかしら?

 安藤雀。
 未成年にも関わらず、なかなかの器量を持つ少女。
 見た目はまぁ男寄りな雰囲気をしているけれども、きっとアレは、芯は極細だ。芯が無い訳ではなかろうが、まだ未成熟過ぎて負荷をかければポキッと折れてしまいそうなレベルだろう。

 深い話を彼女としたことはないけれど、あたしの眼はそう見ている。

 自分の為よりも、他人の為に動く時に真価を発揮するタイプ。
 いつぞや、愛羽がストーカーで困っている時にも、すずちゃんはよく動いてくれた。

 愛羽が惚れているという前情報はあったものの、それ抜きに考えても、出会った日から好感を持てる人物だとは思った。
 そしてあたしの大事な部下がストーカーに悩まされた折には身を挺して愛羽を守ったという。

 若さ故に危険を冒したのは少々頂けないが、よくやったと褒めたい。
 あたしにとっては、我が部下>我が部下の隣人、であるから、とても冷たい言い方をすれば、すずちゃんがどうなろうと愛羽さえ無事で居てくれたらいいという物だ。

 ――ま、今となっては違うけど。

 目的階に到着したエレベータから降りつつ、かの未成年の顔を思い浮かべる。

 他人と距離を取る部分のある性格のせいか、未だ、すずちゃんがあたしを「友人」と言い切るポジションではないが、あたしからすれば、なかなかに可愛い存在だと思っている。

 だが、そこまでなっても、あたしの中には、我が部下>我が部下の隣人、の公式は崩れない。

 だからこそ、愛羽の性格をきちんと深く理解して、愛羽のプライベートもビジネスも、支えてもらいたい。
 出来る事ならば、その身を挺してでも、だ。

 ま、あの時のように流血してまでどうこうしろとは思わない。
 例えば……そうだ。すずちゃんが何か欲望や欲求を我慢する程度ならば、愛羽を支える上で、あって問題なかろう。

 今の所はその傾向が強いので安心しているが、ボーイッシュな形をしていても、女は女だ。
 恋愛にのめり込めば、視野思考は狭くなり、二人だけの空間に嵌り込みたくなってしまうだろう。
 女はすぐ、恋愛に溺れる生き物だから。

 溺れて、金本次長の邪魔だけはしてもらいたくない。

 あたしが育てた部下は元々、強い性格ではない。
 あたしと蓉子さんで、強く育てた。

 あたしは初見では、ここまで伸びる人材だとは見抜けなかった。
 蓉子さんが育ててみなさい。時間はかかるけれど片腕たる女よ。と言い切ったので、目をかけ、世話をしてきた。

 現状を見れば、愛羽は十分過ぎるくらいにあたしの片腕となり、彼女無くしてはうちの部署は上手く機能しなくなる程の人物に育ってくれたので、流石蓉子さん、としか言いようがない。

 そんな愛羽だからこそ、恋愛に溺れられると困るのだ。

 男運が悪いのか、男を見る眼がないのか、よく妙な男に引っ掛かっていた愛羽。彼女が入社してからずっと見ているので分かるが、彼女のパートナーが溺れたら、彼女は簡単に、引きずり込まれて溺れる。

 本人はきっと自覚がないのだろうけれども、愛羽はまだ弱い部分があるから、あたしが目を光らせておかないと、すぐ腐る。

 だから、すずちゃんに金本次長の邪魔だけはしないで欲しいのだ。

 ――ま、今の所それはなさそうだからいいんだけど。

 少し前に長い髪をばっさりと切り捨てた愛羽。
 そんな彼女を気遣ってやってくれと、秘密裏にあたしに連絡を寄越してくるほど、愛羽の精神面のケアやフォローをしようとしてくれたすずちゃんだから、まぁ……大丈夫だろうと思う。……いや、まだ、思いたい、という願望が先行しているだけ、かな。

 あたしは資料室の重苦しいドアを開けて、見慣れた背中に声を掛けた。

「おー。ちびちゃん頑張ってるねぇ」





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