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いつもの通り合鍵で入った引地の部屋。
あたしは、玄関タイルのすぐ向こうのフローリングにへたり込んだ。
膝がガクガクする。震えが治まんねぇ。目がふわふわする。これは眩暈か……?
心臓なんてドドッドドッドドッてな具合に、100本ダッシュした時みたいな速さで鳴ってる。
体が熱い。でも背中は寒い。背骨に沿って冷水が通るホースが這ってるみたいにそこだけ冷たい。し、腰は砕けたみたいに力が入らない。
我ながら、1階のエントランスから3階のこの部屋までよくエレベータも使わず上って来れたもんだと思う。
ていうかそれ以前に、よく、あれだけ突然出会って、話がまともに出来たと思った。
荒い動きの心臓を服の上から引っ掴んで落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着けと頭の中で唱える。
口も、喉も、もうカラッカラで、喋れやしない。
真冬のマラソン大会の直後みたいに気道がひっついて吐きそうだ。
「武藤さん……?」
廊下の奥の方で声がした。たぶん、この家の主である引地がリビングに続くドアを開けてこっちを窺ったんだろう。
一拍の後、ダダダと音を立ててこっちに走ってくる。どうしたの大丈夫と訊いてくる声は、今まで聞いた中で一番焦っているし、コイツが走るなんて動作をしたのは、そういえば出会ってから初めてかもしれない。
玄関先のフローリングにうずくまったまま、あたしは片手をあげて左右にぴょこぴょこ振った。大丈夫、と伝えたいんだが、これだけで伝わるだろうか。
「なに!? どうしたの!?」
伝わらねぇよなぁそうかやっぱ伝わらねぇか。
振った手を握られながら、カラッカラの喉でなんとか「水くれ」とだけ言えば、彼女はまた急ぎ足でキッチンに向かい、ペットボトルに入ったミネラルウォーターを持ってきてくれた。
それでなんとか渇きを解消し、人心地つくと、あたしは霞がかった視界を振り払うよう頭を振る。……が、あぁ駄目だ。余計眩暈がする。
「救急車を呼ぶ!?」
「いい。いい。引地、落ち着け」
完全にパニクッてる彼女が、マジで119に電話してしまわないように腕を引っ掴むけれど、あんまり力が入らん。
これは……思った以上に、ヤバイなと自身に呆れながら、あたしはようやく上体を起こして、廊下の壁に背を預けて座る。
蓋を開けっ放しだったペットボトルからもう二口飲んで、深呼吸する。その間も、彼女の手は掴んでいた。
「さっきな、1階のエントランスで会ったんだ」
自分の手が嫌という程冷たい。引地の手が火傷しそうなくらい熱い。
「先輩に」
何度も何度も瞬きをして、ようやくクリアになってきた視界。
意識してまた深呼吸をすると、肺が膨らんで、萎む感覚。
大丈夫、息は出来てる。喉も、水を飲んだから落ち着いてきた。
腹の底にある気持ち悪い感触は、吐き気だけど、これはしばらくすれば落ち着くはずだ。
「それはあなたが今通う大学を選んだ理由の、あの先輩?」
「……うん」
確認するよう、慎重に訊いてくる引地に、頷いた。
目玉が細かく震えるような感覚がしてきて、目元をくしゃくしゃに縮れさせるみたいにギュッと目を閉じる。それを開けば、目玉の震えは止まったけれど、何故か鳥肌が立ってきた。
ペットボトルを置いて、引地の手を解放して、両手で両腕を擦る。
「寒い? 立ち上がれる? リビングへ行けそう?」
問われて、ああそうかと鳥肌の理由に納得した。
今は12月。暖房器具もない玄関先。フローリングに直に尻を下ろしてればそりゃあ寒い。あたしは引地に頼まれてポストに届いているかもしれない郵便物のチェックに行っただけなので、コートも何も羽織ってないジャージ姿。そんなんでここに居たら、寒いわけだ。鳥肌も立つ。
奥へ行こう。
そう思って立ち上がりかけて、力が入らなかった。そういやぁさっきも腰が砕けたみたいだと感じたばかりだったんだ。
「引地」
「何?」
「腰抜けた」
「ええ……っ?」
びっくりしている引地が面白いし、先輩に会って時間差で腰抜かす自分も面白い。なんだか笑いが込み上げてきてケタケタと笑ってフローリングを叩いていると、「……狂ったの……?」とか恐る恐る言われる。
それもまたおかしくて笑うと、「狂ったわ」と断定された。
またそれがおかしくて笑えばそろそろ腹が痛くなってきた。これは下痢とかじゃなくて、笑い過ぎた腹痛だ。
ひーひー言いながらなんとか笑いをおさえ、痰が絡む喉を咳払いでなんとかして、気の毒そうな視線を送ってくる彼女に「狂ってねぇよ」と遅ればせながら言い返す。
「今の笑い方は狂人じみていたけれど?」
「おもろくて笑って狂ったって言われるならあたしは元々狂人だな」
後を引く痰の絡みにぅうんっと強めの咳払い。
単身者用の部屋の狭い玄関で手を伸ばしてなんとか鍵を閉めて、靴を脱ぎ、あたしはリビングに向けてフローリングを文字通り這い始めた。
立ち上がってあたしを見下ろす引地の視線は痛いが、だってあそこへ居続けるのも寒ぃし、でも立ち上がれねぇし。となるとやるのは伸ばした両手をべたっとフローリングにくっつけて腕の力だけで下半身を連れていく。それしかない。
「何をしているの……?」
狂人と疑わない引地は先回りをしてわざわざあたしの行く先に屈み、邪魔をする。まぁ本人的には意図もせず邪魔をしている訳なのでなんとも言えないが……。
「腰抜けて歩けねぇから這ってるだけだ」
自身の状態を解説するとやはり情けない事この上ない。
「分かったら手引っ張って連れてってくれ」
情けなさを誤魔化すみたいに気まぐれに言ってみせて、引地に向かってホレホレと持ち上げた両手を差し出す。と、意外なことに彼女はあたしの手首を掴みぐいぐいとリビングまで引っ張ってくれたものの、そう言えばそうだった。この部屋、這って移動できるほどの通路がないと気付く。
廊下は狭いのだからせめて物は置くなと教え込んだ通り、廊下はきれいだった。
でも、背景を描く勉強をし始めてまたいっそうノートや紙が増えて、このリビングはいつか床が抜けるのではないかと心配するレベルで所狭しと絵が積み上げられている。
ここを匍匐前進ではなく、ただ腕の力だけで這って移動して山を崩すのはイメージしやすい未来だ……。
なのにあいつはノートの山が崩れる心配すらしていないのか、あたしを座卓まで連れて行こうとする。「あぶねぇって!」と背の高い山が顔面めがけて崩れそうに揺れる恐怖で声をあげるも、容赦なく引き摺られ、あたしはなんとか無事に座卓まで到着した。
「初めて人を引き摺ったけれど楽しかったわ」
「楽しんでんじゃねぇよ……」
だからグイグイいったのかと納得はするが、呆れの視線を送らずにはいられない。
腰に力が入らないあたしは、うつ伏せにぱたんと倒れたまま、引地の足音だけを聞く。
たぶん、開けっ放しだったリビングのドアを閉めに行ってくれたんだろう。
戻ってきた彼女は、自分だけ座布団へと座った。
あーーー……腰だっる……。なにこれ。人生初腰抜けたんだけど。マジであの先輩……。くっそ……。
「ねぇ」
「ぁあ?」
「あなた、落ち込んでいる?」
「……ああ」
「目的を達成出来て、嬉しくて、そうなったのではないように見えるのだけど……正解?」
「……ああ、大正解だよ」
「そう」
言っていて悲しくなるが、今まで世話になってきた彼女にはこの結末を報告しない訳にはいかない。
だからあたしは、床に倒れたまま口を開く。
「今さっき、1階のエントランスで先輩と、その彼女と会ったんだ」
「……?」
少し間があったけれど、引地はこれまで聞いてきた中でいちばん素っ頓狂な声で「かのじょ?」と言った。
「……あ。イヤ、あー……あ~~……あの、……んん、とな。あのー……」
ずらずらずらと意味のない言葉を並べながら、ある事に気付いたあたしは焦った。が、彼女はこちらの焦りを知った上でも、質問をぶつけてくる「なんで?」「どうして?」「なにが?」人間だ。
「あなたが今の大学を選んだ理由の好きな人は、同じ部の先輩と言っていたわよね?」
「……」
言った。そう言った。でも、ここで認めたらなんかもっと色々バレていきそうで黙っていると、うつ伏せの背中をつつかれる。
つんつん、つんつん、つんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつん。やめろとでも言わない限りずっとつつき続けそうなレベルで、やってくる。
いやでも……この状況。さっきの引地の反応。
絶対あたしの読みは外れてないぞ。
今まで何も気にせず喋ってきたけど……きっと、今までこいつに、バイはバレてなかったんだ。
何度となく「好きな人」とキーワードを出してはいたものの、それがラブかライクか。はっきり教えたことはなかった。
その上、引地が漫画家に抱く「好き」は間違いなくライクや憧れだ。それを前提として――いや違うな、それしかない状態で今まで喋ってきた。だったら引地はあたしの感情を誤解していやしないだろうか。
少し前、先輩が温泉旅行へ行った。それが気になって仕方ないと説明したとき、引地はこう言った。「好きな人が誰と温泉旅行へ行ってもあなたには関係ないでしょう?」と。正直、これを言われた時はムカついた。確かに関係ないさ。話しかけることも出来ないあたしには関係ない。だけどなんつーかモヤモヤドロドロした感情が出てくるから完璧無関係な訳じゃなくてこっちは一方的に影響は受けてんだよ! と怒鳴り返したかった。
だが今そのセリフを考え直してみると、「憧れの人が誰と温泉旅行へ行ってもあなたには関係ないでしょう?」という意図で引地は言ったのだと想像できる。
そういう気持ちで言ったのなら納得できる。あたしだって、憧れの……例えば洋画に出てくるスターはカッコイイと思う。憧れてる。その人が温泉旅行へ誰と行こうが関係ないし、別にどうぞいってらっしゃい楽しんで、と思える。好意的な感情を抱くだけに終わる。
蜘蛛と雲があるように。
雨と飴があるように。
虹と二時があるように。
好きと好きがあるわけで。
日本語の難しさというか。感情の差の難しさというか。
こいつと喋る事の難しさを今一度改めて思い知ったところで、あたしは思考の世界から現実に戻ってきた。
飽きもせず、ずっと背中をつつき続けている引地をチラと見上げれば、真顔だ。
逆に怖ぇよと心の中で呟いて、腰が抜けて現状逃げることもできない自分に溜め息を吐いた。
「……わーっかったって! 答えりゃいいんだろ……!」
「同じ部の先輩と言っていたわよね?」
こいつ……マジでブレねぇな……。
平然と数分の無言が無かったかのように話を続ける引地にある種の尊敬を抱きつつ、あたしは頷いた。
「言ったよ」
「それは、男子バスケ部の、という意味の、同じ部だったのね。同じ部というくらいだから、あなたの好きな人は女子バスケ部の先輩なのかと勘違いしていたわ。ごめんなさい」
………………え……?
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